銀座一丁目新聞

茶説

集団的自衛権容認・集団安全保障をめぐる憲法論議考

 牧念人 悠々

あらためて日本国憲法を読む。第2章「戦争の放棄」第9条「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
9条の第1項は「戦争をしない」と言うこと。第2項は「軍隊を持たない」ということである。
集団的自衛権の行使容認について違憲論が圧倒的で、合憲論は少数意見である。平和憲法の下、なぜ日本が「自衛隊」を持つようになったのか。諸外国が「集団的自衛権」を認め、集団的安全保障を考えているのにかかわらず日本が集団的自衛権の行使を容認するのになぜ大騒ぎしているのか、残念ながら平和憲法がいつも国際情勢の変化によって揺れ動いているからだ。

昭和25年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮へ出動した在日米軍の空白を埋めるための「警察予備隊」が創設された(1950年8月10日吉田茂内閣は政令で「警察予備隊令」を公布)。警察予備隊は小銃、機関銃、迫撃砲、戦車、火砲、ロケット、航空機を持つ警察であった。「軍隊の誕生」である。政令の第1条(目的)「この政令は我が国の平和と秩序を維持し公共の福祉を保障するのに必要な限度内で国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うために警察予備隊を設け、その組織に関し規定することを目的とする」。この政令に従って警察予備隊が編成された。明らかにごまかしである。国民の目をごまかすために軍隊を自衛隊、歩兵を普通科、工兵を施設科、工兵を特科、戦車を特車と称する。言葉のレトリックで実態を隠蔽する。昔から日本ではこのようなことが罷り通っていた。警察予備隊創設から日本の再軍備が始まった(自衛隊の創設は1954年6月)。占領下といえども憲法無視もここから始まった。当時警察予備隊の軍事顧問団幕僚長のフランク・コワルスキーは「詭弁以外の何物でない」といい「マッカーサー元帥が1946年に始めた崇高な実験は4年後朝鮮動乱の最初の砲弾とともに消えてしまった」とその著書「日本再軍備」―米軍事顧問団幕僚長の記録(中公文庫)に書いている。この詭弁は今の言葉で言えば「憲法の拡大解釈」である。違憲論争の根元はここにある。

もともと憲法には抜け穴があった。新しい憲法が国会で論議された際、衆議院憲法改正委員会の議長であった芦田均(のち首相)が9条を次のように修正提案して認められた。修正と言うより文章を挿入した。その個所は「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と「前項の目的を達するために」である。つまり「侵略戦争」はしないと願い、自衛であれば戦力を持つことができるとした。芦田さんの頭の中にはいずれ再軍備の時代が来るだろという思いがあった。自衛隊が生まれえた理由である。友人で評論家の霜田昭治君は憲法の前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」を9条の冒頭に挿入すれば昨今のように9条だけが独り歩きするようなことは避けられたであろうという。

日米安全保障条約との関連も無視できない。この条約はサンフランシスコの平和条約(1951年9月8日署名)と不即不離の関係にある。平和条約 第3章 安全 第5条(C)には「連合国としては 日本国が主権国として国連憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団安全保障取極を自発的に締結することを承認する」とある。第6条(A)で協定締結によって外国軍隊の日本駐留を認めるとしている。当時、日本が独立しても無防備で軍隊もない。基地を提供しても米国に守ってもらうほかない。他国の侵略に対して無抵抗と言うわけにはいかない。そこでできたのが日米安全保障条約である。「集団的自衛」と言う言葉が平和条約で初めて国民の前に現れた。だが、日本は憲法解釈として個別的自衛権も集団的自衛権の有するが集団的自衛権の行使は認められないとしてきた(1972年)。米国の経済力に翳りが見え、軍事力が削減され、政権交代により世界戦略変更されれば日本に比重がのしかかってくる。軍事力の役割の肩代わり、防衛費負担、基地費用の増額などの問題がおきてくる。「アメリカの言いなりではないか」とかみついても今まで世話になりっぱなしの相手である。「知りません」と断るわけにもゆくまい。集団的自衛権についても「権利はあるが行使しません」では通用しなくなってくる。

それに厳しい国際情勢が加わる。日本に与える影響は朝鮮戦争の比でなさそうである。中国が毎年軍事費を増大、南シナ海での我が物顔の振る舞いをし、米国はこれに神経をとがらしている。「大国政治の悲劇」(五月書房・2014年10月発行・訳奥山真司)の著者ジョン・j・ミアシャイマーは「200年間の世界史的事実の検証から世界を動かすのは『攻撃的リアリズム』なのであり、したがって米中は必ず衝突すると」予告する。「攻撃的リアリズム」とは国際政治全体を動かすメジャーなプレイヤーである「大国」は常に拡大しようとして攻撃的にふる舞うものだという。今の中国の行動は著者の指摘通りである。

さらに北朝鮮が核を保有し挑発的な態度に出ればISが無差別にテロを起こす。一国では自分の国を守れなくなっているではないか。とりわけ日本は非核保有国である。日本は日米同盟を軸にこれまできた。集団的自衛の目的が「特定他国」を守ることであっても日本の存立とかかわりがあれば集団的自衛権を行使せざるを得ない。違憲と言われてもこれまで「憲法解釈」できた。解釈はいかようにも解釈できる。「必要最小限度」は国際情勢によって変わってくる。

集団安全保障は集団的自衛とは違って特定他国を守ることではなく、国際社会の平和を守ることである。参加しなくても良いが不参加は不名誉とされるという(元陸幕長の冨沢暉さんの論文)。グローバールな昨今、国際社会の平和に無関心でおられるのか。自国だけが平和であれば良いという論理は通用しない。日本の存立の危機が目の前に来ているというのに日本はあまりにも悠長でありすぎる
あれやこれや考えると、現在の日本で行われている集団的自衛権行使容認の違憲論争や安全保障関連法案に対する論争は井戸の中の蛙の争いに見えてくる。その蛙は70年間平和に暮らしてきた幸せ者だがいつの間にかもののふの心を忘れてしまったようである。自分の国を自分で守る気概のない国が滅亡を辿ったのは歴史の教えるところだ。