銀座一丁目新聞

 

追悼録(564)

北原白秋の豊かな詩情

梅雨の晴れ間、多摩墓地を訪れる(6月10日)。府中の自宅から自転車で30分足らずの距離である。目指すは北原白秋の墓。10区1種2側6番。墓地内には墓地正面を経て多摩霊園駅と東八道路を結ぶバスが走る。そのバス通りに直角に走る15区の東3号通りと7区の東2号通りの間に10区がある。すぐわかった。横文字で右から左に「北原白秋墓」とある。上に円い塔が置かれている。その左側に北原家の墓がある。墓の敷地には雑草があった。あまり訪れる人がなさそうな気配であった。無理もあるまい。白秋がなくなって72年もたつ(白秋は昭和17年11月2日死去、享年58歳)。
白秋忌は11月2日。『白秋忌雨が降る降る城ケ島』(中村真知子)
なんといっても「城ケ島の雨」がいい。「利休鼠の雨が降る」「船は櫓でやる櫓は唄でやる」「唄は船頭さんの心意気」…
こんな歌も作っている。「つつましき朝の食事に香をおくる小雨に濡れし洎芙藍(さふらん)の花』(大正元年ごろの作)。
白秋は中学伝習館時代、機何や代数の成績が悪く2度も落第している。短歌に親しんだ17歳の時、雑誌「文庫」に投稿して選者に認められた。早大予科の仲間には若山牧水、土岐善麿がいる。白秋は中学時代からの号である。

話が変わる。6月と言えば「歌供養」の言葉が浮かぶ。命名者は作曲家の船村徹さん。昭和59年6月12日から毎年この日に開いている。今年も開かれた。第1回は東京・文京区護国寺であった。その趣旨はうたかたのように消えてゆく新曲の供養だ。毎年のようにデビューする新人歌手かぞえきれず、そのうちスターになるのはわずかである。せっかく作られた千曲を超す歌が消えてゆく。名曲もあるはずだ。船村さんが作った歌も同じ運命を辿った。歌は時代の要請、作る側の意気、歌詞の言葉のあや、歌手の表現力などさまざまな条件が重なって大ヒット曲となる。歌は生き物。歌手も精進して歌の勉強に励み「心の歌」を歌ってほしいという願いも込められた「歌供養」である。この日は船村さんの誕生日でもある。若い作詞家たちに万葉集を読むことを進めているという。
「作詞家に万葉説く歌供養」悠々

(柳 路夫)