銀座一丁目新聞

 

安全地帯(468)

相模 太郎


戦争の夢を見る…


戦争の夢を見た(6月16日)。従軍特派員として戦場を取材し原稿にしようとしたのだが書き出しが浮かばない。他社の特派員はすでに原稿を送って寝そべって談笑している。焦るが出てこない。そこで目が覚めた。場所は旅順水師営。いまだに原稿の夢を見るとはジャーナリストは因果な商売だ。
2、3日前にBSテレビで映画「二百三高地」(1980年8月・東映上映)を見たせいかもしれない。最後のシーン…仲代達也扮する乃木希典第3軍司令官が三船敏郎の明治天皇に拝謁、復命書を拝読する。途中乃木大将は「我将卒の常に勁敵と健闘し忠勇義烈死を視ること帰すること…」「臣之を復奏せざらんと欲するも能わず…」と泣き崩れる。それを明治天皇が玉座から降りてこられた乃木大将の背中をさすられる…
時は明治39年1月14日。復命書は各軍司令官が帰国とともにそれぞれ奏上した。乃木大将の復命書ほど己の功績を誇らず、率直に作戦経過を述べ、部下将卒の忠勇さを強調したものはなかったという。この映画の監修は当時の東映の岡田茂社長に頼まれて原四郎さんが担当した。原さんは陸士44期。東京幼年学校・陸士予科・本科騎兵科も恩賜の秀才、戦時中ラバウルの第8方面軍参謀であった。敗戦時は大本営参謀として本土決戦の作戦計画を作成した。戦後『大戦略なき開戦』の著書を残している。
次は伊東孝一さん(陸士54期)の書いた「沖縄陸戦の命運」―その死闘の実相を明らかにしかつ作戦の当否をあえて問う―(平成13年11月15日・自費出版)を読んだのも影響している。伊東大尉は昭和19年7月末第32連隊(第24師団)の第1大隊長(総勢799名)として満州から沖縄に転進する。伊東さんは任官後、第1次欧州大戦史をむさぼるように読んで戦史を研究された。米軍の沖縄上陸地点は中頭西海岸付近と的確に予想した。伊東大尉の第1大隊は小波津の緒戦から国吉台の最終戦まで善戦した。本書の目的は副題の通りで戦場での人間の美しさ、醜さを赤裸々に書き戦場心理、指揮官としての決心の良否についても言及している。沖縄の組織的抵抗が終わった6月末頃、女性たちが得意の芋ほりをして兵隊を養い、男にない強靭な力を発見したという記述もある。伊東大隊が敵の軍門に下ったのは敗戦後2週間経た8月29日であった。この日の収容所ニュースは「軍紀厳正な日本軍の降伏してきた」と伝えたという。復員後、伊東さんは沖縄から持ち帰ったサンゴ礁を600に分かち手紙を添えて部下の遺族たちへ送った。伊東さんは「戦史を学ぶのは本質を把握して変遷を知り明日を見通すためである」という。最後に戦場で詠まれた歌を掲げる。「爆雷攻撃間なく浴びつつ思いおり己が散り際如何にせんかと」。
6月23日は「沖縄慰霊の日」。多くの沖縄の住民が戦争の犠牲となった。島民非戦闘員の犠牲者は自決した島田叡沖縄県知事以下15万人を数える。