銀座一丁目新聞

 

追悼録(563)

勝海舟のどこが好かれるのか

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の影響か、幕末の志士たちに人気が集まっている。朝日新聞が「あなたが好きな幕末の人物」のアンケート調査(5月23日)では1位、坂本竜馬、2位、勝海舟、3位、西郷隆盛…となっていた。2位が勝海舟とは意外な気もする。その人物紹介には「幕臣。1860年咸臨丸で渡米。帰国後、神戸に海軍操練所を開き坂本竜馬ら人材を集める戊辰戦争では江戸城の無血開城を実現し江戸を戦火から救う」とあった。手元にある資料をかき集めてその人物像を描いてみたい。
勝海舟が俳句をたしなんだ話はあまり知られてない。

「その友は影さす月か梅の花」
「折った手もしばらく梅の薫り哉」
「二日留守長閑に梅は咲き出たり」
「骨にしむようなり雪にかをる梅」
「梅盛り枝は横たて十文字」
「いざ老も気力くらべむ雪の梅」

ものの本には「海舟の句は月並みで下手くそ」と評しているが作品はその人の人柄を表す。自由奔放。抑えるところはきちんと押さえる勝海舟の人柄が出ていると私は思う。作家・山本七平は勝海舟を評して「日本最大の英雄で全世界を通じて百年に一人も出ない天才」と言っている。E・W・クラーク(勝の招きで米国から来日、『静岡学問所』の教授となる)は「その忍耐、勇気、覚悟、指導者の注意深さは神に近い」とまで激賞している。作品≒人格の表現であるならば、その人の俳句・作品を批判するのはおこがましい限りである。これらの俳句は勝海舟の伯爵時代(伯爵授与は明治20年5月9日)の作と言うから明治20年代の作品であろう。
伯爵授与については、初め賞勲局より幕臣大久保一翁、山岡鉄太郎、榎本武揚らとともに子爵の話であったが勝自身が「伯爵をほしい」と願い出たという。その際、『今まで人並みと思いしが五尺に足りぬししゃくなりとは』と一首を読んで子爵を辞退したといわれる。
幕末の歴史上で見逃せないのは勝海舟と坂本竜馬の対面であろう。勝と昵懇の越前藩主松平春嶽の紹介状を持って坂本竜馬が勝邸を訪れたのは文久2年(1862年)12月9日ころであった。2年前、咸臨丸で艦長として渡米、3週間余サンフランシスコに滞在、西洋文明に触れた勝の話に坂本は翻然と悟るところがあり、攘夷主義者から開国・開明主義者に変身する。時に勝海舟、39歳、坂本竜馬、27歳であった。
勝海舟と言う人物に注目すべきは当時としてはオランダ語も話せ、オランダ教官とも深く付き合い、視野も広い国際人であったことであろう。だからこそ武士の特権意識を捨て、幕府の役人と言う枠をはみ出して物事を判断できたのだと思う。また女人を深く愛したという。ものの本によれば妻のほか8人もの女人がいた。一人の女性にてこずっている人の多い中、想像を絶する。昔の人は言った。「英雄色を好む」。これは古今東西の偉大な真理かもしれない。 勝海舟は明治32年1月、75歳でこの世を去った。

(柳 路夫)