銀座一丁目新聞

 

花ある風景(562)

 

並木徹

 

中学時代の仲間との親睦会

久しぶりに大連の中学時代の友達と親睦会を開いた(5月31日。東京・新橋・中華料理店『新橋亭』)。参加者6名。大阪から宇治原淑隆君が出席した。これが最後と言いつつなかなか解散できない。その都度、話が弾み、忘れていた思い出話が出て来るからであろう。
医者の加藤繁次君はいまだ週2回診察している。彼は友人の磯口勝実君がシベリアに抑留中死亡したのに発表されたロシアの抑留者死亡者名簿にその名がないのに憤慨する。中学時代の名簿には空欄のままである。板橋敏好君もソ連に抑留中に死亡している。磯口君は昭和20年4月応召、チチハル近くの教育隊で訓練を受けた後7月、ハイラルの部隊に配属されるも終戦でソ連軍の捕虜となりシベリアに送られる。作業は伐採、運搬、鉄道建設。最悪の食糧事情、衛生事情の下で発疹チフスが発生、磯口君はその犠牲者となった。シベリアのチタから100キロの寒村の丘の上に松丸太の墓標の下に眠っているという。
恩師大井芳雄先生も終戦間際に北満嫩江の部隊に応召、ハルピンで捕虜,シベリアに抑留された。22年秋、ナオトカから舞鶴に復員する。ナオトカで問題が起きた。大井先生は大連2中から大連高商の教授になっていた。民主化グループの活動家によって「まだ民主化されていない」として船から降ろされかかった時、大連2中時代の教え子が「この人は大丈夫だ」と口添えをして助かったという。私は「多分、その教え子は川越史郎君ではないか」と答えた。調べてみると、川越君はハバロフスクで出ていた「日本新聞」(昭和20年9月15日の第1号から昭和24年11月27日まで650号を発刊)に編集部員として昭和22年5月から7月まで在籍し、そのあと、モスクワ放送のハバロフスク支局に勤務している。彼もまた第七高等学校在学中、福岡の部隊に応召、満州に派遣され終戦時に捕虜となり抑留されたが暇を見つけてロシア語を勉強、その縁で放送局に勤めることになった。その後、ロシア娘と結婚、ロシアに永住する運命を辿る。川越君のロシア語の先生が一緒にハバロフスク支局に居た赤松弘さん(ハルピン学院25期)。川越君のロシア娘の奥さんの姉が赤松さんの奥さんである。これからは真偽のほどはわからない。
私は大連2中の校歌の3番に明治天皇の御製「あさみどり澄み渡りたる大空の広きをおのが心ともがな」が取り入れられていると紹介した本紙「銀座一丁目新聞」5月20日号をコピーしてみんなに配った。その際、書き忘れた校歌の作詞者・沼波武夫について話をした。一高・東大を出た恩師押見三郎先生(国語担当・担任)が記したメモによれば、沼波武夫は国文学者で一高の教授も務め、俳号を瓊音。そのお墓は東京護国寺の共葬墓地に国文学者芳賀矢一先生の墓と同じ列に並んでいるという。手元にある俳句の本で調べると,瓊音の句として「秋晴れや電車に乗って面白き」(明治38年作)があった。品川―新橋間に電車が走ったのは明治36年8月26日。数寄屋橋―神田が同じ年の9月15日である。当時は「チンチン電車」といった。文明の交通機関が庶民の間では「電車に乗って面白き」であったのであろう。昨今、長野新幹線が金沢まで伸びて大騒ぎするのと似ている。瓊音、今にあらしめば「秋晴れや『あさま』伸びて面白き」と詠むであろうか。押見先生は足が悪くびっこであった。学生時代ラグビーをやっていて怪我をされたのだという。初めて知った。押見先生がスポーツマンとは思いもよらなかった。
宇治原君は5月30日、大阪から上京、ホテルでM8・5の小笠原島沖の地震にあい、エレベーターが動かず、7階の部屋まで階段を上っていったと話をする。その宇治原君は昭和19年12月7日、東南海地方大地震(死者は998人)の際、知多半島にあった大同製鋼に勤労動員中で怖い思いをしたという。
話は56キロ行軍、先生方のあだ名の由来、50年後の食糧危機などあちらこちらに脈絡なしに飛び尽きることがなかった。