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こまつ座の「戯作者銘々伝」を見る
牧念人 悠々
東憲司・作・演出、こまつ座の「戯作者銘々伝」を見る(5月25日・新宿紀伊国屋サザンシアター)。有力な版元・蔦屋重三郎を中心とした江戸時代のもの書きの話。作者たちのその生き方はそれぞれ。模倣・盗作騒ぎ、当局の弾圧もあって現代とそう変わらない。面白く拝見した。クライマックスは山東京伝が資金援助もして応援していた花火職人の若者の夢、両国の花火大会に“300尺の大玉を打ち上げること”がお上の一声で中止なったシーン。『なぜ、庶民が喜ぶ大玉を打ち上げてはいけないんだ』と、絶望する花火職人・幸吉の声がいまだに残る。不発に終わったこの花火に京伝が名をつけた。「夜の日輪」という。
舞台には江戸の出版文化を彩った山東京伝、蜀山人、式亭三馬、朋誠堂喜三二らが登場する。大人の絵本「黄表紙」の世界に大輪の花を咲かせた山東京伝。その中の傑作が「江戸生艶気樺焼」(えどうまれうわきのかばやき)。深川木場の質屋の長男であった。蜀山人(太田南畝)は狂歌の大御所。父親は幕臣。本人は大坂銅座詰まで出世する。式亭三馬は滑稽本「浮世風呂」「浮世床」の作者として知られる。朋誠堂喜三二の本名は平沢常富。秋田佐竹藩の留守居役筆頭。政情を風刺した『文武二道万石通』(天明8年・1788年)はベストセラー。御政道を揶揄しているとして幕府から目をつけられる。さしずめ識見豊かな元通産官僚が官邸からのおとがめがあったのかどうかはっきりしないがテレビから干されたという話と相通ずる。京伝と重三郎も2年後に好色本禁止令(寛政2年・1790年)にひっかかり京伝は手鎖50日、重三郎は財産半分を没収の処分をそれぞれ受ける。
両国の川開きは例年5月28日に決まっていた。この川開きの花火から8月28日の打ち止めの花火まで三月の間、船遊び、船涼みが一般に行われていた。
花火の本元として鍵屋・玉屋の2軒があったが玉屋は花火の爆発から出火してその咎でつぶされてしまう。舞台では「かぎや…」が連呼される。両国の花火は“江戸の華”。幸吉がここで職人の芸を最大限に発揮したいというのは当然の事。若き日の己を幸吉に見出して協力を惜しまなかっただけに「お上の中止の指示」は不条理に思えた。納得はいかなかったものも手鎖の刑の恐怖から黄表紙の内容は善玉、悪玉が登場する教訓的な路線へ変更する。安政4年(1775年)『金々先生栄花夢』で一躍流行作家となった恋川春町にしても『鸚鵡返文武二道』(寛政元年・1789年)が寛政改革を皮肉くったものだというので松平定信から4月に呼び出しを受けた。病気を理由に出頭しなかったが7月には急死する。享年45歳であった。恋川春町は駿河小島藩の藩士であった。筆を折る折らない話は戦前にはよくあった。これからも絶無と言うわけではない。出版の原点は「創造と挑戦」。蔦屋は見事其の役割を果たした。むしろ積極的に将来性ある作者引き込んだ。日本の出版界にもそのような出版人が少ないがいる。楽しみだ。江戸の戯作者たちが竹のようにしなやかに生きた姿を舞台いっぱいに見せたのは心地よかった。それにしても京伝の妻など3役をこなした女優さんは私には輝いて見えた。
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