銀座一丁目新聞

 

追悼録(562)

梶山静六さんを偲ぶ

同期生で自治・通産・法務各大臣を歴任した梶山静六君が死んで15年たつ(平成12年6月6日死去、享年74歳)。このほど梶山静六君と陸軍航空士官学校時代から親しかった後藤久記君から梶山さんに関係する本が2冊送られてきた。1冊は読んだことのある「追悼 梶山静六 愛郷無限」(2001年5月1日発行、同編集員会編)。もう1冊は田崎史郎著「梶山静六・死に顔に笑みをたたえて」(講談社・2004年12月15日発行)。同封されていた手紙によれば、後藤君は昨年7月医者から胃癌で余命はあと1年といわれた。抗がん剤を飲んでいるが副作用もなく大いに飲み大いに語り、月4回の仲間の集まりでも医者の誤診と言われ当惑している。先の見えてきた人生なので気の向くままに身辺の整理をしているがこの本2冊だけはそのまま処分するには躊躇を感じた。特に追悼本の中には「マスコミ関係」と言う部分もあったので、興味ある部分だけでも一読の上処分していただければ幸いだとあった。
「月4冊の本を必ず読む」と決めている私にとって嬉しい話であった。早速読み始めた。私は兵科も歩兵、社会部記者であったので政治家とは事件取材のほかはあまり縁もなく、梶山静六君とは平成11年11月勲一等旭日大授章をいただいたお祝いに後藤君と一緒に議員会館で会ったほか、橋田壽賀子さんのパーティで雑談したくらいであまり親しくなかった。橋田さんとの縁は官房長官時代、橋田さんが講師として勉強会に出席したことによる。送られてきた本を読んで同期生の中でも尊敬する友人の一人・後藤君が梶山静六君を惚れ込んだ理由がよくわかった。梶山君もまた乱世の英雄。事に当たれば責任を以て懸命に成し遂げた男であった。『菜根譚』の一節「事をなして痕跡をとどめず」を愛唱したという。達成感に浸ることができた仕事を終える時に口をついて出る詩であった。彼の本領を発揮したのは平成10年7月24日に行われた自民党総裁選挙に立候補したことだ。小淵恵三、小泉純一郎が立候補した総裁選である。名コピーライターの田中真紀子が「凡人、軍人、変人」と名づけた総裁選挙である。梶山君の立候補理由の演説は見事であった。「私たちの社会は、国家は、今年より来年、来年より5年後、10年後、間違いなく活力が溢れて、豊かで幸せな国になれるということを確信してやってまいりました。しかしここ数年はたしてこれで良かったのかという反省が湧いてまいりました」。今、政治家で「国家」が真っ先に浮かぶ者がいるであろうか。昨今はあまりにも党利党略に走り自己本位でありすぎる。
「これから命を懸けてでも、あるいは途中で倒れるかもしれない、この私の死屍を乗り越えて皆さん方に日本の将来を築き上げてほしい」と梶山君は訴えた。 この演説を聞いて後に郵政大臣になる野田聖子議員はこれまで遠い存在であった梶山静六候補を政治家として、人間として尊敬し父親のような錯覚すらいだくようになったという。投票の結果は小淵225票、梶山102票、小泉84票であった。「102票」。著者の田崎史郎は「これは自民党を変えようとする情熱と梶山への友情の結晶体であった」と評する。
手元に元官房長官梶山静六・監修『遠別離』(作詞中村秋香、作曲・杉浦千歌)唄・遠藤実のカセットテープがある。時々聞く。田崎さんの本によると、平成11年12月8日同期生の集まりで梶山君が陸士の間で惜別の歌として歌われている『遠別離』の正確なテープを作りたいと言い出した。梶山君は入院直前の平成12年2月18日、後藤君と一緒に東京・新宿にある作曲家・遠藤実の事務所を訪ねテープの作成を依頼したという。このテープは後藤君から頂いたものである。

「程遠からぬ旅だにも
袂わかつは憂きものを
千重の波路を隔つべき
今日の別れをいかにせん」

田崎史郎の言う通りテープは梶山静六君の同期生に対する別れの辞であった。

「われも益荒男いたずらに
袖は濡らさじ、さはいえど
いざ勇ましく往けや君
往きて尽くせよ国のため」

歌うほどに涙がこみ上げてくる。嗚呼、梶山静六君今やなし…

(柳 路夫)