銀座一丁目新聞

 

安全地帯(466)

相模 太郎


石清水八幡宮


東海道新幹線が京都駅を出て、大阪方面に約10分、緑したたる新緑の山が両側に迫って来る。東は、男山、西は天王山の山並みで、織田信長が明智光秀の謀反により、京都本能寺で討ち死し、それを備中高松城の水攻めで攻略中に聞いた秀吉が、城主清水宗治の切腹を引換に和議を成立、急きょ反転、昼夜兼行で駆け抜けた有名な「中国大返し」で、明智光秀と遭遇戦を交えたところだ。山麓にはサントリーウィスキー山崎工場がある。相対する男山の頂上に鎮座するのが石清水(いわしみず)八幡宮である。この間が京、大阪の交通の要衝だ。狭い隘路(あいろ)であるが現在、名神高速道・JR新幹線・東海道本線、京阪・阪急線、街道が通る。明治維新の鳥羽、伏見の戦いもこのあたりから始まっている。展望台に登ると桂川、宇治川、木津川が合流し、遠くには京都を取り巻く東山36峰、比叡山、西山と、京都方面が一望に見え雄大であった。

恥ずかしながら老生、膝を痛め、今回は、ケーブルのお世話になり、家内に連れられ?ステッキをつきながら山頂をめざす。去る5月11日、三度目30年ぶりで訪れた八幡宮は、参拝客もなく、鬱蒼とした新緑の森の中にあった。一度目は70年前、懐かしの京都歩兵第九連隊士官候補生隊付勤務のときで、二度目は鎌倉時代の史書「吾妻鏡」のご教授を受けた恩師、故奥富敬之先生(註1)と同行だった。

実は、老生の住まいは鎌倉にあり、特に関係の深いこの参拝が最後になるかも知れないので、今回のJRフルムーン旅行(註2)にぜひ加えてもらうよう家内の了解を得た。古来より、源氏ほか多くの武将が尊崇した鶴岡八幡宮は鎌倉のシンボルにあたる。源頼朝の五代前にあたる源頼義が前九年の役(註3)の際、在住していた鎌倉に戦勝を祈願のため、京都の石清水八幡宮護国寺(明治初めの廃仏毀釈で寺は廃止、鶴岡も同じ)を鎌倉由比郷(現在材木座一丁目、今の宮より約300m南、元八幡)にご神体(神功皇后・応神天皇・比売神)を勧請したのを嚆矢(こうし)とする。後世、頼朝が現在の場所に遷し鎌倉の中心とした。

石清水八幡宮は、清和天皇の貞観元年(859)大分県宇佐八幡宮より勧請したお宮であって京都の西南裏鬼門に位置する王城鎮護の神で、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟であることを始めて知る。また、武運長久の神として代々の武将が尊崇したので、書状、寄進など多数の宝物がある。八幡造りの社殿をはじめ境内の建物の多くは重要文化財に指定されている。源頼義が八幡の霊夢により授かったという嫡男の不動丸が7才になったので石清水の社前で着服加冠し、八幡太郎義家と名付けたのであった。

参拝後、幸運にも宮司さんより声をかけられ、豪壮な漆塗りの拝殿の中を特別に拝観、ご案内していただいた。杖を突いた老夫婦を見て訳ありと思はれたのか、ご好意に感激であった。保存のご苦労などをお聞ききしたが、中でも漆や檜皮葺(ひはだぶき)の材料、保存は大変らしい。拝観のなかで驚いたのは、直径50cmほどあろうかと思われる半円形で金箔、長さ50mほどの本殿の金の雨どいで織田信長の寄進になる。当時の戦国武将の心意気を示すものだ。

来年の干支(えと)は申(さる)であるが、それにご縁のある話をお聞きした。この社(やしろ)は美しい見事な花や動物の飾り透かし彫が多くあるが、特に本殿回廊西門の欄間の透かし彫りが面白い。幅1m、高さ30cmほどだが左甚五郎作といわれる手足の長いサルの彩色の彫刻だ。あまり迫真なのでときどき里に出て悪さをするというので目に釘が打たれ、「目貫の猿」(個人撮影不可)と称されている。宮司さんのお話しによれば「平成20年にこの透かし彫りを外し修復に出したところ、一匹の体長50cmほどの猿が忽然として境内に現れ、時々宮司さんのそばを平気で歩いていたと。そして3年後修復を終え元のところへはめたら、どこともなくいなくなったという。」これ、本当の話だと説明を受け驚いた。懇切なご案内でお礼に銅板2枚にそれぞれに揮毫し、寄進した。ほか、世界最初、トーマスエジソンがここの竹の幹の燻蒸により作ったフィラメントの電球が成功したのでそれを称えた碑もある。

(註1)日本医科大学名誉教(中世史)、鎌倉時代に関する著書が多い。71才で逝去
(註2)JRで売り出す繁忙期を除くシーズン限定パス、JR乗り放題一部の列車以外特急グリーン車利用、ただし、夫婦で88才以上、5日、7日、12日間とある
(註3)源頼義、義家親子が朝廷の命により苦戦のうえ東北の安倍一族を征討した戦い。

以下の写真は筆者が27.5.11撮影    岩清水八幡宮


八幡造りの社殿

透かし彫り左は辰、右は虎

参道