銀座一丁目新聞

 

花ある風景(561)

 

並木徹

 

忠犬ハチ公と同期生

仲間の集まりである多摩59会で意外な話を聞いた(5月20日・場所・吉祥寺中華料理店)。同期生の上原尚作君が忠犬ハチ公に触っているという。同席した安田新一君もハチ公を実際に見たことがあるという。昭和6年ごろの話だそうだ。私などは銅像でしか知らない。忠犬ハチ公物語は有名な話だが詳しくは知らない。ネットで調べてみると、飼い主の上野英三郎東京帝国農学部教授が大正14年5月、死しんだ後も上野教授を渋谷駅まで迎えに行きつづけたことで有名になった。教授の死後、ハチは上野教授の妻、八重さんの親戚の日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられ、さらに浅草の高橋千吉(高橋子之吉])宅へと移される。ハチ公の上野教授を慕う心が甚だしかったのか、散歩中、渋谷に向かって逸走することがしばしばであった。このためハチは再び渋谷の上野教授宅へ戻されてしまう。渋谷に戻ったハチは近所の畑の作物を駄目にしてしまうということから、今度は豊多摩郡代々幡町大字代々木字富ケ谷(現:渋谷区富ヶ谷)に住む上野教授宅出入りの植木職人小林菊三郎さんのもとに預けられる。ハチ公が代々木富ケ谷の小林さん宅に移ったのは上野教授が死亡してから2年余りがたった昭和2年の秋のことであったが、この頃から渋谷駅で、上野教授が帰宅していた時間にハチが頻繁に目撃されるようになる。上野教授を迎えに渋谷駅に通うハチのことを知っていた日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉さんが昭和7年、ハチ公の事を新聞に寄稿。これが東京朝日新聞に、「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、広く知られるようになった。
もう一人、感動的な話をしたのは佐藤九州男君であった。昨年大病をして人生の余白がないことを悟り、一度訪れてみたいと思っていた知覧に行ってきたという。90歳にもなるというのに鹿児島駅前でレンターカーを借り、知覧に着いて護国神社・平和祈念館・開聞岳(924m)をみてまわった。感激ひとしおのものがあったという。陸軍航空士官学校で航空通信を学んだだけに佐藤君の気持ちは痛いようにわかる。私は新聞社の西部本社勤務であったので鹿児島出張の際は必ず知覧を訪問。その都度、涙が自然と出た。死を覚悟したもののふのみが知る境地である。友との触れあいは心が和む。