銀座一丁目新聞

 

安全地帯(465)

信濃 太郎


明治・大正・昭和三代天皇御製


仲間たちの集まり世田谷五十九会で荒木盛雄君から明治・大正・昭和三代天皇御製四十七首を記したメモをいただいた。明治天皇は歌聖といわれ9万首の歌詠まれた。声をだして朗読すると心が清々しくなる。同時に歴史の重みを感じざるを得ない。
明治天皇御製

「あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな」

母校・大連二中の校歌の3番にはこの御製が取り入れられている。

「みどりに澄める天つ空の 広きを己が心として
亜細亜に強き魂を入るる 務めを果たす人とならん
励めはげめ たゆまずはげめ」


校友誌『晨光』(第9号)には

「空はれて菊の香に匂ふ明治節」(牧野)とある。

母校は敗戦とともに廃校になった。

「あやまちを諌めかはして親しむが まことの友の心なるらむ」(明治天皇御製)

心温かき同期生にめぐまれた。大いに知的刺激を受ける。今読んでいる星亮一著「奥羽越列藩栄盟」(中公新書・2009年9月20日9版)はこの日出席した霜田昭治君に薦められたものである。仙台藩参謀として奥羽越列藩同盟の戦略立案にあたり、北方政権の樹立を叫んだ玉虫佐田太夫は最後には処刑される。その詩やよし。

「事態の変遷は古今に同じ
たとえ有事あれども豈関心あらんや
駈馳奔走何をおもうて還らん
悠々独り琴を撫するにしかず」


「よもの海みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらむ」(明治天皇御製)

大東亜戦争が勃発する前、昭和16年9月6日の御前会議での出来事である。戦争に傾斜する統帥部の態度に不満を持たれた昭和天皇が前記の御製を読み上げられ、こう仰せになられた。「余は常にこの御製を拝誦して故大帝の平和愛好のご精神を詔述せむと務めておるものである」。この昭和天皇の一言は陸軍を震撼させた。だが天皇の平和の意図は具現されなかった。
大正天皇は和歌を本居宣長のひ孫の東京帝国大学文学部古典講習科講師であった本居豊穎(1834―1913)に、漢詩を同大学教授三島中州(1830―1919)にそれぞれ学んでいる。漢詩に長ぜられ作詩は1367首に及ぶ。
日露戦争が起きた時、大正天皇は25歳であった。

「国のためたふれし人の家人は いかにこのよを過ごすなるらむ」

皇太子時代、自由奔放にすごされ、気さくな一面もおもちのようであった。明治33年10月,九州各地を旅行された際、香椎の宮境内で松茸狩りをしたところあまりにもたくさんとれるので「ことさらにうえたのではないか」とやらせを見破り関係者をあわてさせたという。

「埋火に炭さしそえて寒き夜を ひとりしづかにふみを読むかな」(大正天皇御製)

昭和天皇御製。
「山々の色はあらたに見ゆれどもわがまつりごといかにあるらむ」(昭和3年・歌会始め・即位の大礼)
「峰つづきおおふむら雲ふく風の はやく払へとただ祈るなり」(昭和17年・歌会始)

翌年の昭和18年12月9日昭和天皇は埼玉県朝霞の陸軍予科士官学校に行幸。58期と59期の5000の生徒を閲兵、「振武台」の名称を賜う。

「国がらをただまもらんといばら道 すすみゆくとも戦とめけり」(昭和20年)

終戦の詔勅を西富士野演習場で聞く。「朕は時運の趨く所堪えがたきを堪え忍び難きを忍び以て万世のために太平を開かんと欲す」歩兵科の士官候補生3ヶ中隊12区隊の全員、涙す。中には「自由が来た」と心の中で叫んだ同期生もいたと後で聞いた。

「喜びはさもあらばあれこの先の からき思ひていよよはげまな」(皇太子さまと正田美智子さんのご成婚内定)

内定の発表は昭和33年11月27日。毎日新聞社会部の「皇太子妃取材班」に組み込まれ取材、他社より先に美智子さんが有力な皇太子妃候補であることをつかみ、深みのある紙面を作った思い出がある。取材班10人のメンバーも8人が死に、あと2人だけとなった。

「この年のこの日にも靖国の みやしろのことうれひは深し」(昭和62年8月15日)

昭和天皇は戦後靖国神社には8回御親拝になっている。昭和50年11月21日を最後に御参拝になっておられない。東京裁判で刑死された東条英機大将ら7名と未決拘禁中に病死した2名、結審後の受刑中に死亡した5名の計14名が「殉難者」として靖国神社に祀られたのは昭和53年秋である。
「靖国神社の歌」(昭和15年10月発表。作詞・細渕国造、曲・陸海軍樂隊)の一番『日の下の 光に映えて 尽忠の 雄魂まつる 宮柱 太く燦たり ああ大君の 御拝し給う 栄光の宮 靖国神社』
今日の日本の繁栄は213万柱の英霊のおかげであるのはいうまでもないことだ。最後に次の歌を掲げる。

「かくばかりみにくき国となりたれば捧し人のただにおしまる」(戦争未亡人の歌)