銀座一丁目新聞

 

花ある風景(557)

 

並木徹

 

こまつ座の「小林一茶」を見る

井上ひさし原作・鵜山仁演出・小松座の「小林一茶」を見る(4月10日・東京新宿・紀伊国屋ホール)。一茶と言えば「我と来て遊ぶや親のない雀」「名月をとってくれろと泣く子かな」などでよく知られる。その句はわかりやく、平明で親近感がある。生涯2万句を作った。一茶が生まれたのは宝暦13年(1763年)で芭蕉はすでに69年前に没し、蕪村は48歳であった。一茶は文政10年(1827年)65歳まで生きるがその生涯は『薄幸の生』であったという人がいる。「亡き母や海見る度に」。母との死別は2歳の時、8歳で継母を迎え10歳で生まれた異母弟ともそりが合わず、遺産を巡り葛藤を続けた。江戸に出たのは15歳であった。36年も江戸の留まり、一茶の俳句の「笑い」の本質「ざれ言に淋しさを含み、可笑しみに哀れを尽くす」に精進したと評される。
お芝居は「賭け初め泣きはじめ江戸の春」に始まって11幕で終わる。賭け「三笠付け」は俳諧の師匠が下の句を出して上の句を作らせ優劣を決めるものであったが難しいというので、上の句の初めの5句を出題して中7、下5をつけて一句にする形に変わった。元禄のころ幕府は賭博として取り締まったが三笠付けはなくならず流行った。一茶は初めから上手であった。相当稼いだようである。憎めないライバルが竹里と言う俳人であった。このお芝居の見どころは何と言っても貧乏俳人小林一茶が泥棒の疑いをかけられたこと。一茶にとって人生の転機であった。江戸の三大俳人の一人,夏見成美こと蔵前の札差井筒屋八郎右衛門の別宅から480両の大金を盗まれた事件で思わぬ嫌疑をうけた。師事している成美にすげない態度を示されたのは一茶にとって屈辱であった。俳人としての誇りを無残に打ち崩ずされた。「木つつきの死ねとて敲く柱かな」を「こわい句」とそれなりに評価してくれたと思っていた師匠であった。一茶に句がほどばしる。「散る花やすでにおのれも下り坂」「よろよろは我も負けぬぞ女郎花」「老が身の値踏みさるるけさの春」・・・
事件を調べるのは見習い同心五十嵐俊介。俊介の心は温かい。一茶を知る人たちの証言を集めて真犯人をいぶりだす。それを手助けしたのが意外にもライバルである竹里であった。犯人は他に居た。その竹里は富津の名主織本家の未亡人花嬌との恋路を邪魔する。花嬌かしたためる一茶への思いを込めた句を竹里が手直して一茶に手渡すのである。男女が詩歌に自分の思いを託してやり取りするのは「源氏物語」からの手段。舞台では次から次へと俳句がいとも簡単に出来るのは面白い。花嬌は一茶の只一人の女弟子と伝えられている。
最後に「秋の夜や旅の男の針仕事」の一茶の句を掲げる。井上ひさしは「身につまされます。一茶自身、ずっと旅をしてきました。旅籠屋土地の有力者に泊めてもらってそこでふんどしとか破れ物を針で繕っている」と注釈する。私が選ぶなら「目出度さもちゆ位也おらが春」。一茶に一番ふさわしい句であるような気がする。