銀座一丁目新聞

 

追悼録(557)

特攻の語り部 板津さんを偲ぶ

知覧特攻平和会館初代事務局長板津忠正さんが6日死去した。享年90歳。心からご冥福をお祈りする。
板津さんは特攻の生き残りの陸軍伍長である。昭和20年5月28日基地知覧から30機、万世から13機、陸軍特攻振武隊として沖縄に出撃した。板津さんの搭乗機は機関に故障、徳之島に不時着陸した。その後、本土決戦要員として知覧に駐留して敗戦を迎えた。
板津さんは生前次のように書き残している。
「百年、二百年後我が国に一大変革をもたらした大東亜戦争が語られる時世界に類のない決死的戦術、自ら武器となり飛行機を操縦して艦船に突入する特別攻撃隊の真実を残しておかねばならない。どのように評価されるとも真実を記録するのが残された私の義務だと思うようになった」板津さんの残りの人生は「語り部」であった。
4月7日の「銀座展望台」にこう書いた。ネットで調べてみると、板津さんが配属された陸軍特攻213振武隊は指揮官が特別操縦見習士官出身の小林信昭少尉。213振武隊で特攻戦死したのは松下貞義伍長と蘆田慎一伍長の二人である(二人の操縦機は2式高等練習機)。小林少尉は宝島に、佐藤壮子次伍長は徳之島にそれぞれ不時着陸している。日向登伍長と小椋忠正伍長は5月26日(昭和20年)加古川飛行場から知覧に向かう途中エンジン不調で28日の出撃に間に合わなかったとある。毎日新聞(4月7日)の板津さんの死亡記事の中に「エンジン不調で徳之島に不時着陸」とあるが誤りである。板津さんの手記「特攻・巡礼行」―心の重荷を背負って―(別冊一億人の昭和史「特別攻撃隊」)によると少し事情を異にする。加古川飛行場を出発したのは5月25日で「知覧に移って早々5月28日の黎明、我々は出発した知覧から30機、万世から13機が突入した。しかし私の搭乗機は機関に故障を起こし生き残り羽目になってしまったのだ」と不時着の有無は書いていない。
大正14年1月生まれの板津さんは初め民間パイロットを目指した。逓信省米子航空機乗員養成所に入所、その後陸軍の操縦士になるために大刀洗陸軍飛行学校で学び台湾で操縦の訓練を受けている。陸軍の特攻による戦死者は1036名。板津さんは敗戦までに2回もあった特攻の機会も天候のため中止となり生き恥をさらしながら戦後を生きることになった。戦後名古屋市役所に勤務するも暇を見つけて特攻の遺族を訪ね、遺影・資料収集・墓参を行った。特攻戦死者1036人全員の遺影を集めたというからただただ頭が下がる。
板津さんは心の荷が軽くなるように懸命に戦後を生きられたと思うがその手記にある「特攻を美化する気持ちはないが再びあの悲惨を繰り返さないためにも特攻隊員の死を正確に理解し歴史の一コマとして真実を後世に伝えたいと思う」と言う熱い思いは今後とも伝えていかねばならない。

(柳 路夫)