銀座一丁目新聞

 

安全地帯(461)

信濃 太郎


恒例の「みはた会」開かれる


恒例の「みはた会」が開かれた(4月3日・東京・アルカデア市ヶ谷)。参加者11名。午前12時、靖国神社境内の遊就館でガラスの額縁に収められた321連隊の軍旗と対面する。一昨年まではこの軍旗を捧持して靖国神社に参拝するのを行事とした。敗戦時、後藤四郎連隊長(平成17年1月・97歳で死去)の機転で全陸軍の歩兵連隊で唯一焼却せずに残された軍旗である。それを保存するために取られた措置である。
この後、ホテルで懇談をする。司会は及川光代さん。321連隊で参加したのは連隊旗手であった石松勝さん一人だけであった。今年は95歳。元気で昨年は8月6日、ひ孫の石松樹君(10歳・小学5年生)と一緒に広島を訪れ、平和式典にも参加した。当時、今の東広島市に駐屯していた321連隊は原爆を落とされた広島に負傷者救助や遺体処理のために急行、作業に当たった。今まで黙していた戦争の事をひ孫に語った。そのことを読売新聞(平成26年8月5日夕刊)と朝日新聞が大きく取り上げた(平成26年8月6日)。この会でもいつも裏方として几帳面に黙々と世話役の仕事をこなしてきた石松さんである。戦後70年を前にして期するところがあったのであろう。地域誌にも戦争の体験を語り平和への思いを語っている。私は石松さんに毎日新聞OBの同人誌『ゆうLUCKペン』をプレゼントした。同人誌に後藤さんの著書「陸軍へんこつ隊長物語』出版のいきさつや後藤さんとの交遊抄を書いたからである。
後藤さんの甥の森田康介さんが後藤さんを偲んでパソコンに収めて軍歌7曲を流す。「陸士校歌」「抜刀隊」「歩兵の歌」「昭和維新の歌」などがあった。森田さんの父・森田大平は熊本幼年学校以来、後藤さんと同期(陸士41期)で後藤さんの妹ハツさんと結婚している。森田さんは1佐で退職したが防大の2期生である。息子さんも自衛隊を志し、防大33期、現在准将(航空)で父親より偉くなったという。この日、後藤さんの兄三郎さんの娘さん石井晃子さんも福岡からわざわざ出席された。兄三郎さんは京都の武道専門学校出身で剣道の高段者であった.佐賀の中学校で剣道を教え、生徒から大変慕われた。私の大連時代の剣道の先生も武専出身で後藤三郎さんに教わっている。
横須賀防衛協会会長でもある小山満之助さん(陸士60期)が今年の防大の卒業式の模様を語る(3月22日・卒業生は442名うち女性25名)。高輪に住んでいる石松さんが近くに居を構えておられた東久邇宮様に触れると伊室一義さん(陸士61期)が思いがけなく宮様の3男であった俊彦殿下の話をする。陸士の予科時代、東久邇宮俊彦王殿下と伊室さんは第1中隊で区隊も同じであった。ある時、砂場で空中回転(いわゆるトンボ返り)の練習をしていたときのことだ。何人かの生徒がトンボ返りをしてみせると、殿下がこれをご覧になっていて、自分もやってみたいとおっしゃった。幼年学校時代に鍛えられた同期生なら、そんなことは朝飯前だが、学習院から来られた殿下には経験がなかったらしく、すぐにはできそうもないので、私が介助役を務めて、差し出した腕を軸にして回転するようにお教えした。「殿下、助走して来て、私の腕の下に手を入れて、クルッと回転して下さい」殿下は、「よし、わかった」と力強く声を上げ、砂場をめがけて助走し始める。ところが、である。私の腕の下に手を入れたのはよかったが、頭から砂場の砂に向かって真っ直ぐ勢いよく飛び込んでしまったのだ。次の瞬間、「大丈夫ですか殿下!」と口にしながら、私と何人かの学友が砂場に駆け寄った。すると殿下は、砂だらけの頭を振り払いながら、苦笑いしておっしゃった。「トンボ返りというものは、なんだか痛いものだな、伊室」。その日の午後、この“事件”を知った区隊長に呼び出され、叱かられた。「『竹の園生』の御身を何と心得ておるか」。話は尽きず予定より2時間も延長する始末であった。来年も4月4日「みはた会」を開く。