花ある風景(553)
並木 徹
2・26事件余聞
毎日新聞OBの同人雑誌「ゆうLUCKペン」の第37集刊行パーティーが開かれた(2月26日・東京一ツ橋・アラスカ)参加者29人。今回のテーマは「忘れられないアノ出来事」。執筆者30人。みんな思いつくまま自由に書いている。私は陸士41期の先輩・後藤四郎さんの本を毎日新聞から出版した物語を書いた。この期には『要注意将校』が14名もおり2・26事件には3名が参加、それぞれ処刑されていることに触れた。これを読んだ同人の石綿清一さん(92歳。浦和支局長、編集委員、校閲部長)から「寄居町の身体障害福祉施設に在籍していたころ女性管理栄養士の義父が2・26事件の生き残りの麦屋清済元少尉と知り交流を深めました」と2通のコピーされた墨筆の麦屋さんの手紙が送られてきた。事件当時歩兵3連隊第1中隊の所属していた麦屋少尉(幹部候補生出身)は斎藤実内大臣邸の襲撃に参加、見張りを担当したというので無期禁固の刑に処せられた(昭和11年7月5日)。麦屋少尉は当時25歳であった。
事件当時石綿さんは中学1年生で麻布1連隊の反乱軍(357名参加)が石綿さんの家の前を行進、首相官邸を襲撃した。幸楽の前でミカン箱に足を踏みしめ野中大尉(四郎・陸士36期・自決)が演説した光景が忘れませんと言う。
コピーされた麦屋さんの手紙には「人はどういおうと北一輝は昭和日本を形成した偉大なる人物であると私は今でも思っております」(日付平成3年5月27日)とある。北一輝は「日本改造大綱」(大正8年)を著し革新将校たちに影響を与えた。2・26事件では「理論的指導者」として捕まり処刑された(昭和12年8月)。辞世の句として「若殿に兜とられて負け戦」を残す。
もう1通には「昭和維新は当時日本の現状改革と相まって将来像の青写真を巡った朝野二分の巨きな事件でありました。したがって事件は一切厳秘非公開の原則の下の暗黒裁判でありました。裁判記録も実は軍法法廷の長官は時の陸軍大臣寺内大将(注・寿一・陸士11期)の指揮統制による軍事裁判でありました。それ故に事件は迷○○(読めず)疑惑は今日でも多々あることは識る人の識るところであります…あの磯部大尉(注・浅一・陸士38期・昭和12年8月処刑)の天皇御諌めの緊張の一場などは・・・」(日付平成3年文月4日)とあった。
2・26事件の反乱将校たちは勅令による臨時軍法会議で裁かれた。そのため裁判の公開の原則や弁護人も認められず、一審制であった。裁判官,判士、法務官など法定関係者は全員が軍法会議長官に隷属した。軍法会議長官は陸軍大臣寺内大将であったから軍法会議は陸相の意図のままに結審した。起訴されたもの123名。うち死刑になったものは19名に及んだ。磯部は歩兵から主計に転科した熱血漢。11月事件で陸士37期の村中孝次(2・26事件では首謀者として処刑)とともに停職になり、二人で出した「粛軍に関する意見書」で免官になった。獄中にあって2万字を超える「獄中記」を書く。その記録が温情ある看守の手から面会に来た夫人に渡され世の中に知られることとなった。その獄中記に天皇に関して書かれている。「今の私は怒髪天を突く怒りに燃えています。私は今は、陛下をお叱り申し上げるところにまで、精神が高まりました、だから毎日朝から晩まで陛下をお叱り申しています。天皇陛下 なんという御失政でありますか、なんというざまです。皇祖皇宗におあやまりなさいませ」(澤地久枝著「妻たちの2・26事件」中公文庫より)
事件当日、川島義之陸相(陸士10期・陸大恩賜)が拝謁した際、陛下は「今回の事は精神のいかんを問わずはなはだ不本意なり。国体の精華を傷つけるものと認む」と御言葉があったという(木戸幸一日記)。
在職中、石綿さんとは交流がなかった。同人誌が取り持つ縁であった。昨今、石綿さんは知的刺激を受ける得難い先輩である。
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