2015年(平成27年)2月10日号

No.635

銀座一丁目新聞

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花ある風景(550)

 

湘南 次郎

 

戦前、戦中の在米邦人 

 先日、米国在住の義弟より「北米川柳道しるべ」という戦前、戦中、戦後の川柳を集めた甚だ興味のある冊子をいただいた。ちなみに彼は、在米50年以上、精密計器のロス支店長として勤務後、現在80才、市民権も取得し、熟年夫婦で悠々自適の生活を送っている。その冊子で太平洋戦争(1941〜5)の戦前、戦中の在米邦人のご苦労、土地の所有を禁じられ定住できず、排日、侮日のなか、戦中は強制収容所へ身ぐるみひとつで抑留され、歯を食いしばって耐えた日本人の心境を垣間見ることができる。では、その一旦をご紹介しよう。

(戦前) 
 明治29年(1896)シアトル、翌年サンフランシスコ航路が開設され、中国人にかわる安い労働力として日本人の移民が奨励され、1920年ころには11万人超となる。多くの若者は、何が待ち構えるとも知らず一攫千金を夢見、故郷へ錦を飾ろうと新天地に賭けた。刻苦勉励、勤勉で従順、予想以上の働き方であった。それがかえって裏目に出て排日運動まで起きてしまった。白人が権力を握り、有色人種、特に真面目な日本人、賃金の安い支那・韓国人が排斥の的になった。

 テープ今切れて瞼が熱くなり(さらば故国)
 アメリカの乞食葉巻をくわえて居犬のよな名前もらって皿洗う
 震災の絵で来る故郷の年賀状(関東大震災)
 踏みつけた頭の上に税をかけ(10ドル/人の人頭税)
 移民法妻さえ呼べず無縁塚
 お隣が2マイルあって仲が良し
 放浪の行く手に遠い荒れ野原  
 夫婦して開いた土地はひとのもの(土地が良くなるとリース3年制で取り上げ)
 市民権生んだ手柄の女房なり(アメリカ籍の子の名義で土地取得ができた)
 戸口まで泣かずにきたがワッと泣き(イジメ)
 秀才の二世移民のせがれなり
 踏まれつつ二世は強く伸びて行き
 忠孝の教え二世に無理があり   
 英語では意見にならず親が泣き
 朝の屠蘇まず東京の子を思い(預けてきた子)
 お隣も悩む二世の結婚期 
 卒業式二世が目立つ優等生   
 手紙さえ来れば国からカネの事(1929年世界同時経済大恐慌)
 こちらにもカネの成る木は無いと書き
 秀才を雇ってくれぬ肌の色(排日、侮日)
 琴の音を囲みて和む感謝祭
 久々に拝する軍艦旗に目が潤み
 日章旗エリオット湾狭く見え(日本海軍寄航)
 銀紙と一緒に太る祖国愛(祖国に航空機のアルミを補うため包装銀紙丸め献納)   
 排日の空にはためく鯉のぼり
 御真影異郷でおがむ今朝の春(天皇皇后の写真)
 米人の引き上げ何か暗示する(日米開戦近し)
 最悪へ大和魂あるばかり

(戦中)
 昭和16年(1941)12月7日早朝、日米開戦、真珠湾攻撃、日本人の血を引くものは敵性外国人、西海岸の邦人約11万人(この冊子は西海岸の邦人の状況のみを記している)を対象に、要人はFBIが逮捕、数か月後一般邦人は僻地の馬小屋などを利用した収容所に抑留された。日本大本営は邦人向け短波放送で「動揺せず半年の辛抱を」と呼びかけていたそうだ。日本は半年で終結の予定だったのか?また、2か月半後日本潜水艦がサンタバーバラ沖から製油所を銃撃、一挙に米本土上陸の危機感に、邦人収容が早くなったという。
 半生(はんせい)の汗を手提げの荷にまとめ
 惜別に畑も涙を露に見せ       
 文無しの昔に還る収容所
 十万の汗と血潮はジューが吸い(ジューはユダヤ人)
 神様も一時馬屋の棚の上
 馬小屋に住んでニンジン食わされる
 一時間待った食事の軽い皿
 ルンペンも百万長者も同じ列
 キャンプ來何年ぶりの本を読み(全集物は許可)
 サンタニタ傾く月に探照灯
 諦めて馬屋に静か囲碁の音
 寝つかれぬままに行く先案じられ
 鉄柵のトゲはキャンプの内へ向き
 釈放は名のみ柵から柵の旅(再移住)
 夭折の通夜悲しき造り花(生花なし)
 日本字の墓あり浜の草の中
 有り難さ誰も泣いてる醤油樽(デンバー在住の邦人より差し入れ)
 子の志願親の希望を打ち砕き
 宿命か子は日本へ銃を向け(二世部隊)
 笑う日を忘れ三度の春が経ち
 戦況に身の将来へ腕を組み(米忠誠へ踏み絵)
 カシノ戦世紀を飾る百部隊(442二世部隊欧州戦線に多大の犠牲で勇戦奮闘)  
 忠誠は遺骨となって認められ 
 宿命の国へ世紀の人柱(悲劇)
 新武器に過去の正義は泡と消え(原子爆弾)
 玉砕の知らせキャンプの身を嘆く
 御聖旨へ涙が涸れる血の誇り(終戦詔勅)
 敗残の民よ何とか生きてゆけ
 満座那に涙の記録墓いくつ(有名なカリフォルニア山中マンザナー収容所で)

 以上戦前、戦中の川柳をご紹介したが、残念ながら故国日本への望郷の歌は少ない。「あまの原ふりさけ見れば春日(かすが)なる三笠の山に出でし月かも」(古今集)百人一首にもある阿部仲麻呂望郷の歌がある。筆者はそれを期待していたが、それどころではなかった。それは、胸の底にあっても生きるのがせいいっぱい、いかに苛酷な境遇のなかにあったかを物語っている。そして、不運にも、真珠湾攻撃が始まってしまって、心中いかばかりだったろう。苦節四年、終戦で邦人は釈放され、「この歳で渡米時代に逆もどり」。裸一貫より再起を期し、アメリカ社会へまた、たくましく順応していった。 
 
 戦後編は後日書きたいと思っている。