2014年(平成26年)10月20日号

No.624

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追悼録(540)

後藤四郎さんの遺言「虚説 従軍慰安婦」

 本を整理していたら本の間からか紙が落ちてきた。見ると、陸士の先輩後藤四郎(陸士41期)さんが書いた「虚説 従軍慰安婦」とあった。後藤さんは平成17年1月20日97歳で亡くなられた。日付はなかったが多分平成16年秋頃書いたものだと思う。私は毎日新聞の出版局長時代、後藤さんの著書「陸軍へんこつ隊長物語」(昭和54年12月20日刊)を出版したご縁で知り合い、ことあるごとに後藤さんが主宰する会合に出席した。

 90代になっても時世の問題に関心を持ち、一書をしたためる気力があるのに感心する。読んでいるうちにこれは後藤さんの「遺書」でなかったのかと気がついた。

 後藤さんは昭和4年少尉に任官、昭和7年の上海事変参加を手始めに満州独立守備隊(昭和8年〜昭和14年)、国境守備隊(昭和14年〜昭和15年)中支戦線の58連隊(昭和15年から昭和16年)と各地を転戦し昭和16年7月、負傷(右膝関節盲貫銃創)のため内地に還送されるまで満8ヶ年の長きにわたって戦場の辛苦を身をもって体験された。もちろん慰安婦との接触もあり本人は「全軍ナンバーワンの体験者と自負している」と言っている。ここに全文紹介する。


 「戦時中、従軍記者・従軍看護婦という言葉はありました。それはそれが存在したからです。しかし従軍慰安婦という言葉はなかった。それはそんなものはどこにも実在しなかったからです。江戸時代から昭和33年までは公認の遊郭(江戸の吉原・今日の祇園・長崎の丸山等)が全国各地に存在した。また非公認の娼家も各地にあった。そこに働く女性たちは昔から傾城・花魁・遊女・娼妓・娼婦・女郎などと呼ばれていた。

 女衒が貧しい家の娘を金で集め(身売りと言っていた)業者はこの女性体を使用して売春営業したものあり、これ独り日本のみならず、外地でも似たり寄ったりで、どこでも普通一般の事とされていた。欧米職でもストリートガール(援助交際もその一種)が居らぬ街はないというのが一般常識である。

 近隣の外地では彼女たちを朝鮮P、支那Pと呼び現地人をはじめ在留邦人・従軍記者そして兵士等は、それぞれ自由に買春したものである。ハッキリ断言します。P屋はPは決して軍の専用ではありません。兵士たちは休日に外出した時、このP屋に行ったものであり、前線にPを強制連行なんてことは断じてありません。

 P屋は前線からはるか後方の生命の危険のない相当大きな町にありました。前線では、危険な地帯で弾薬・糧秣の輸送もままならぬので兵士たちは飢餓に堪えながら蛇や野鼠を捕食したり、そして夜は重武装(小銃・背嚢・雑嚢・水筒、前後三つの弾薬入れ【120発】短剣・巻脚絆など30キロ以上)のままごろ寝です。そんな危険・苛烈な状況下の第一線にPを連行できるものか、できないものかは冷静な判断力でわかるではありませんか。

 従軍慰安婦という言葉は一体いつ頃から世間に出てきたのであろうか。戦後も28年も経過した昭和48年、千田夏光(大正13年生・元毎日新聞記者)という男が「従軍慰安婦」という本を出版しこれに自虐偏向のマスコミが太鼓をたたいたのがキッカケで、その後世間一般に「そんなものが実在したのか」と錯覚作用を引き起こしたのが事の真相です。

 この虚説がどれほど日本人の誇りを傷つけ、日本人の自尊心を喪失させたことか、その罪の重大さはまさにはかり知ることが出来ぬと申すべきでありましょう」

(柳 路夫)