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安全地帯(384)
−相模 太郎−
幻の大寺院跡基壇復元と発掘現場見学会
源頼朝の建立(こんりゅう)した鎌倉の三大寺に鶴岡八幡宮寺(神仏混淆(こんこう))、勝長寿院 (義朝、従者鎌田正清供養のため)、及び永福寺(ようふくじ)がある。八幡宮以外は現存しない。
永福寺跡発掘現場で調査、整備現況の説明会があった(1月25日)。北風の強い寒い日であったが、平日にも関わらず新聞等にも予告があり、関心のある熱心な人々が約300人以上も来訪され盛況であった。
永福寺は、源義経が兄頼朝の追及を逃れ、奥州藤原氏を頼って住んだ平泉の大長寿院を参考に、将軍の権威を高めた関東の一大寺院であった。頼朝は奥州征伐のあと、奥州藤原氏の戦死者、弟義経の冥福を祈って鎮魂のため鎌倉東部の三方、山に囲まれた地に点定した。伽藍は前方に池を配し、山を背に東を向き、中央に二階堂(5間四方現在地名に残る)、左に阿弥陀堂(5間×4間)、右に薬師堂(5間×4間)(一間は1.8m)を配し、両外側に池にせり出す釣殿、また、各々を二重の廊下で結んでいる。池は南北約200m、東西約70m、やり水(注水溝)、橋、島、置き石等のある壮大なものであった。完成は、建久3年(1192)11月25日であった。その後、応永2年(1405)の三回目の大火で再建されることはなかった。その遺構86,000uが昭和41年国指定史跡に、昭和58年(1983)発掘調査が開始された。勿論世界遺産に登録申請中の第一級の遺跡だ。原型は京都宇治の平等院(10円銅貨の文様)であり、それを奥州藤原一族が金産出の財力にまかせ、平泉に中尊寺、無量光院、毛越寺・大長寿院などを建立、みちのくに京に負けぬ大伽藍が出現したのであった。しかし、源頼朝の奥州征伐で藤原4代泰衡により自ら火をかけ、金色堂ほか小堂を残し灰燼に期した。大長寿院も現在池が復元されているが、京都宇治の平等院と同じ南面であるが、永福寺は東面であり頼朝のオリジナルという。
現在はまだ、人や重機が入り発掘中だが、礎石や遺物が多く発見され、興味は尽きない。私も何度も発掘の説明会に訪れているが、今回は、内側の礎石を囲む基壇が復元され良く整備され、全容が現われ実にすばらしい。掲載の写真を参照ください。今後、庭園や池も発掘復元するそうで、平成27年に史跡公園として一般公開する予定とのことであった。
場所は、鎌倉宮の東奥約200mで水仙咲く瑞泉寺の入り口にあり、直前には故平山郁夫画伯のお宅がある。奥へ谷戸を進めば紅葉の獅子舞の谷、眺望絶佳の十石峠、天園ハイキングコースへつながる。鎌倉逍遥の節は金網越しではあるが基壇や礎石、庭の石組が見えるのでぜひお立ち寄り願いたい。
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永福寺三基壇平面図
右の空き地は池の跡
筆者撮影 25.1.25 |
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手前より阿弥陀堂、二階堂、薬師堂 |
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