「死をもって潔白を証明する」とは、やはり、すごい決意である。まして話題の映画監督であり、マスクも才能も現代感覚のマルチ人間とあれば、マスコミが一斉に飛びつくのも当然であろう。だが、伊丹十三氏の死には、いくつものナゾがある。そのナゾの最たるものは、伊丹氏を死に追いやった「通常取材範囲」という写真週刊誌「フラッシュ」の弁明だ。
新聞はまだしも、民放テレビは“好餌”(こうじ)とばかり、死の現象面だけを取り上げ、写真週刊誌の本質を衝いていない。尾行二カ月、盗み撮りの低俗取材を、彼らは「通常の取材範囲」といってはばからない。興味本位と売らんかな主義。権力者へ挑むならともかく、有名人のプライバシーを暴くことだけに、うつつを抜かす写真週刊誌にとって「通常の取材範囲」とは、一体、何を指し、何を基準にしてのことか。マスコミには「通常」と「異常」と二通りの取材方法でもあるというのか。それとも「通常」といえば、すべて許されるとでも思っているのか。近来、これほど滑稽極まる弁明を聞いたことがない。
政治家たちが、業者から金をもらったときの弁明を思い出す。「政治資金規正法の範囲内」とか「適切に処理している」とか。日米のガイドラインも「安保条約の範囲内」と政府はいいのがれをしている。
「範囲内」というゴマ化し表現は、政府や政治家が作り出した風土病である。その風土病が、いつしかマスコミまで汚染し、写真週刊誌「フラッシュ」まで、その口調を真似るようになった。「通常の取材範囲」とは、“政治家病”の亜流にすぎない。とても「通常」のジャーナリズムが口にする言葉ではないのだ。
伊丹氏の死を、面白おかしく取り上げながら、「フラッシュ」の“低俗の本質”に触れないマスコミも、いわば同類というしかない。政治家のウソとマスコミの興味本位。いまや「異常」と「通常」が逆さまになってしまった。