安全地帯(209)
−信濃 太郎−
「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」
去る日、浅草に遊ぶ(3月17日)。浅草寺の鳥居のすぐ右側に久保田万太郎の句碑が立つ。そばにヒマラヤスギ、ケヤキなど10本の木がある。お寺にお参りする人はいるが句碑に気がつく人は見かけなかった。一人外人が座ってハンバーガーをほほばっていた。今から43年前に建てられた句碑には「竹馬やいろはにほへとちりぢりに 万」とある。右隣に万太郎を師事した川口松太郎の句碑もある。その句は「生きるということのむつかしき夜寒かな」である。
万太郎は浅草田原町に明治22年11月7日生まれる。浅草寺で引いたおみくじは「大吉」で「願望」「思いがけぬ人の助けありて叶う事あり」というので足の向くままに歩き出す。伝法院近くで古本屋を見つけた。探していた戸板康二と井上ひさしの本があったので買う。戸板は「むかしの歌」(講談社・昭和53年12月4日発行)の中で万太郎は歩きながらふと口にする句があるがそれが立派な作品だとして次のようなエピソードを紹介する。
築地の新喜楽で開かれた喜多村緑郎の喜寿の会で女優の霧立のぼるがお酌をした。その爪が真っ赤にマニキャュアされている。万太郎はすかさず「秋風やおろかに染めて爪赤く」とつぶやいた。女優は嫣然として「マァありがとうございます」といったという。
万太郎の句碑の撰文にいう「久保田ハ浅草ニ生レ浅草ニ人と成ル 観世音周辺一帯ノ地ノ四時風物トソノ民俗人情ヲ描イタ大小ノ諸篇ハ日本文学ニ永ク浅草ヲ伝エルモノトイウベキデアロウ」(小泉信三)
万太郎が23歳の明治45年4月、有楽座で初めて上演された「暮れがた」と昭和14年上演の「蛍」(みつわ会公演)を見る(品川・六行会ホール・3月15日)。「暮れがた」は万太郎が慶応の学生時代の作品である。舞台は浅草の三味線屋の見世。時は5月18日。午後5時ごろ。三社祭りの囃しが聞こえる中、女房おりゑ(片岡静香)と元三芳屋の旦那嘉介(伊和井康介)、元柏屋の若旦那庄太郎(大根田良樹)らが商売の浮き沈みのよしなごとを話す。静かな間が流れてゆく。
「蛍」が初めて文学座で上演された時、万太郎は新派、新劇の演出の仕事が多くなったころである。時に50歳であった。原作は三宅正太郎。時期は昭和2,3年ごろ。場所浅草鳥越付近。時期・6月の初め鳥越神社の祭礼の日。酒がもとで傷害事件を起こしたかざり職人の哀話である。親方の親切な計らいで更生し身を固めるも刑務所にいる間、弟弟子と一緒になった元女房を忘れることができず、元女房に似た女性と出会い、「一本の柱がほしい」と尽くしてくれた妻を捨ててその女性とどこかへ旅立つという物語。かざり職人鈴木重一(菅野菜保之)が好演。飾り職人舟木栄吉(世古陽丸)その女房とき(大原真理子)の会話も落ち着いてよい。舞台を静かに時間が流れてゆく感じがするのが私に何とも言えない安心感を与える。
万太郎は「演出はカンです」と答えているがそれは俳句でも同じで「俳句は浮かぶものだ」と言っている。それは蓄積するものがあるから芸術センスとともに表に出てくるのであろう。万太郎が描いた浅草の町は大きく変わったがまだ人情は残っている。立ち寄った古本屋は町の古本屋が次次に廃業してゆく中を50年も店もやっているという。「お得意さんのお陰です」と言っていた。 |