安全地帯(205)
−信濃 太郎−
兵どもの夢の跡、座間で最後の中隊会を開く
靖国神社へ参拝する(2月5日)。明治天皇御製は「かぎりなき 世にのこさむと 国のため たふれし人の 名ぞとどむる」遺書は陸軍軍曹 亀田栄蔵命のものであった(2月の拝殿・社頭掲示)。亀田軍曹は「昭和20年2月16日フィリピン群島ルソン島コレヒドールにて戦死、東京都赤坂区新坂町出身 29歳」とある。妹さんあての遺書には「今後の苦労は倍加すべし。されど美栄子に強さを願う兄の気持ちも倍加す。期待に副うことを切望する。身だしなみ。女らしさ。しかも強さ。難しきことなれど修行すべし。以上。兄」とあった。
亀田軍曹が戦死した昭和20年2月16日は反攻に転じた米軍歩兵部隊がコレヒドールに上陸を開始した日である。これより先の1月16日米軍の空挺部隊2000名がコレヒドール島のトップサイドに降下し守備隊を東西に分断、日本軍の指揮中枢部を占領する。同島は板垣昴海軍大佐(海兵47期・青森・戦死後少将)指揮の陸海軍将兵4500名が守備をしていた。2月16日米軍歩兵部隊が上陸、マリンタ高地を占領した。17日には板垣大佐も戦死。27日までにわずかな捕虜を残して玉砕した(毎日新聞「日本の戦史・太平洋戦争4より」)。
このころ私たち59期生は神奈川県座間にある陸軍本科士官学校(相武台)で猛訓練を受けていた。埼玉県朝霞にあった陸軍予科士官学校(振武台)を卒業した同期生1328名がそれぞれの地上兵科に分かれ南校舎に11中隊から16中隊が寝起きしていた。座間に来て5ヶ月、新聞が米軍の反攻を伝える中、連日連夜、各兵種別訓練に明け暮れた。2月19日にはTヶ月の隊づけにそれぞれの任地へ出発した。階級は伍長であった。
現在ここは陸上自衛隊座間分屯地(第4施設群)になっている。もちろん米軍の基地もある。戦後63年、この座間で私のいた14中隊会の最後の会を5月末に開く計画を立てている。14中隊には歩兵2区隊,工兵3区隊で編成されていた。下準備のために座間分屯地の群長であった山内長昌君(重砲・13中隊3区隊)にわざわざ案内を頼み園部忠君(工兵・14中隊4区隊)私(歩兵・14中隊1区隊)の3人が座間分屯地を訪れた(2月1日)。司令業務室長1等陸尉武田守弘さんと広報班長倉橋一也さんに丁寧に応対していただいた。武田1等陸尉は第3次イラク派遣隊員であった。中隊会ではイラクの話もきけそうである。帰りの車の中で山内君から昔話を聞いた。兄の山内長英さんは陸士54期でたまたま59期生機甲兵科の11中隊4区隊長をしておられた。日曜外出の点呼の際、一人の候補生が帰隊していないとわかるや直ちに軍歌演習を命じ小田急線相武台前駅に向かい、途中で遅参の
候補生を隊列に加えて何事もなかったように兵舎に戻ったという。私の区隊長久保村信夫少佐(53期)は昭和62年12月23日なくなっておられる。夫人宣子さんは歌人で「君逝きて」の歌集をいただいたことがある。その中の一句を思い出した。「区隊会に陸士の教え子吾囲み語らひ呉るるかの日の亡夫」この日山内君から「千の風さまざま」という詩をいただいた。
千の風 乗ったら明日が 見るかな(生きているうちなら明日を見たいとも思うかも)
千の風 乗れない今日は 北の風 (南風だったら?)
千の風 吹いて石屋は 店仕舞い (墓が売れなくなった)
千の風 さてはキリスト 再臨か (? )
多磨墓地に 詣る人なし 千の風 (いなければ行っても仕様がない)
青山に 千の風吹けと 土地や云い(墓地の再開発計画目白押し)
千の風 吹けば桶屋の 株天井 (・・・・すると 桶屋が儲かる)
凧を持つ 子には優しく 千の風 (・・・・も人の子)
口喧嘩 して出た頬に 千の風 (痛い風か 苦い風か しょせん犬も食わない)
横なぐり 雪も交えて 千の風 (それも人生)
野は暮れて すすき寂しき 千の風(風も千吹き すすきも千)
つむじ風 アヤヽお前も 千の風 (親類にはアイツいなかった筈)
今の世相を歌いこんでシニカルである。真面目そうな顔して時にとぼけるて見せる。この人らしい歌である。なかなかの詩人である。 |