山田洋次監督の映画「武士の一分」を見る(1月4日東宝シネマ・府中)。ほぼ満員であった。番頭(警備・軍事担当)に最愛の妻を陵辱された盲目の下級武士(30石)の復讐物語である。ささやかな家庭の幸せを不条理な事件で壊されたらどうするか、問う映画でもある。現代、私たちはいつ、理解し難い事件、事故に巻き込まれるかわからない。
考えてみるがいい。いたるところでそのような事件が起きている。2000年12月30日、世田谷区上祖師谷3丁目の宮沢みきおさん(当時44)妻泰子さん(41)長女いなちゃん(8)長男礼ちゃん(6)の一家4人が無残にも殺害された。既に7年目を迎えるが、未解決のままである。みきおさんの両親は「何故うちの子たちだけがあんな仕打ちを受けなければならなかったのでしょう」と嘆いておられる。こんな不条理な事件はない。両親の気持ちは痛いほどわかる。江戸時代と違って復讐するわけにはいかない。マスコミで機会あるごとに取り上げて事件への関心を持続させ事件解決へ結び付けてゆくほかあるまい。
映画では毒見役の三村新之丞(木村拓也)が赤ツブ貝の毒に当たり失明する。妻の加代(壇れい)は上司、島田籐弥(坂東三津五郎)に家名存続を願い出てた。島田は承知したが、加代の体を求めた。加代は死んだ気でになって身を任せる。さらに島田の脅迫で加代は地獄に落ちた。実は「俸禄はそのまま留め置き、十分に養生するように」という沙汰は藩主、右京大夫じきじきの裁定であった。加代の不倫を知って新之丞は妻を離縁、剣術に励む。かって通った木部道場の師範木部孫三郎(緒方拳)に必殺の極意を聞く。「人を斬る気だな。理由は」と問われて「今は武士の一分とか申し上げられません」と答える。その極意とは「倶ニ死スルヲ以テ心ト為ス。勝ハ厥ノ中ニ在リ。必死スナワチ生クルナリ」島田に果たし状を突きつけ、一刀流の使い手、島田を切り捨てる。「武道初心集」(大道寺友山著・岩波文庫)には「武士たらんものは正月元日の朝雑煮を祝ふとて箸を取初るよりその年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以って本意の第一とは仕るにて候」とある。江戸時代の270年間、日本では戦争らしい戦争は日本ではなかった。それでも志ある侍は常に死を考えていた。だから不条理な出来事が起きた際「武士の一分」を果たし得るのである。
戦後60余年日本は戦争をした事がない。国民の多くが腑抜けになってしまった。日常の生活の中で死を考えるのは自衛隊員、警察官、消防士ぐらいであろうか。イラク復興支援のために派遣された自衛隊員は生命の危険を顧みず、その業務に邁進した。しかも他国の派遣軍隊と比べて規律が抜群によかった。具体的にいえば、イラクで他国の軍隊の兵士は盗み、強姦、無銭飲食などを犯したのに自衛隊員にはこのような不祥事は一件もなかった。それをふぬけたマスコや学者がその実情も知らないで派遣された自衛隊を批判する。
山田監督は、つましくも懸命に、身の丈にあった日々をいきる主人公に心をより合わせ、かって日本人が持っていた心と情愛の念を深く優しく描く。素朴でたしかな幸福が壊された時、夫は妻のために自らの命を賭ける"武士の一分”を雄雄しくも示す。果たして今の日本の男性に「武士の一分」があるのだろうか。 |