2004年(平成16年)3月20日号

No.246

銀座一丁目新聞

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茶説

鎌倉時代、料理は男の仕事であった


牧念人 悠々

 同台経済懇話会の3月の会は、鎌倉の歴史と自然を味わう特別例会(3月17日)。参加者はなんと百名を数えた。本宮に昇殿参拝の後、参集殿で昼食「鎌倉春の膳」を頂く。膳の包みに「花は色 人はこころ 大学」とあった。花といえば、大臣山を背に改装なった社殿にいたる参道の櫻は出番を待つばかりであった。18日、東京、横浜、静岡で桜が開花した。いずれも例年より10日も早い。「人は心」。たゆまず磨くほかない。
 「鎌倉武士の文化と教養」について話をされた三浦勝男さん(鎌倉国宝館館長)の内容はユニークであった。源頼朝が幕府を開いたのが1185年(文治1年)、いまから819年前である。その5年前に頼朝は挙兵して、鎌倉に入り、鶴岡八幡宮を鶴岡から現在地に遷している。源氏3代39年、北条16代115年にわたり武家政治が行われた。この時代台所の仕事は男がした。昨今の若い男性と同じような現象だが、これは女性に一服盛られないためであった。その名称をききもらしたが、古文書には「ウソでもいいから女性を大切にせよ」といましめているそうだ。女性は働き者で、働いて得たお金を元手に金貸しする者がいた。利息は二ヶ月で4割8分という高利であった。今でいえば、亭主に1万円貸して4千800円の利息を取ったという。夫婦は別姓であった。鎌倉武士は強いだけでなく教養も身につけていた。「尊卑分脈」(南北朝時代の作)によると北条一族の歌人、または選歌の肩書きを持つ作者は北条時政以下145名中44名が名を連ねている。こんな話も伝わる。渋河兼守が陰謀に加わった廉で捕まった。斬首の刑が明日ということを知って10首の詠歌を鎌倉の荏柄天神社に奉納する。この歌をたまたま目にした伊豆の住人、工藤祐高が将軍実朝に披露すると、実朝は「賞玩」しその罪を許した。1223年(建保1年)のことである。横浜にある金沢文庫(北条実時建てる)など数多くの文庫が鎌倉武士の教養に寄与した。この他禅・浄土・時宗及び日蓮各宗などの鎌倉新仏教への信仰をとおして新たな教養を身につけたという。
 自由散策は同期生の園部忠君(工兵)の案内で坂野上啓君(航空)と私(歩兵)の三人で出かける。まず扇ケ谷の相馬一族の墓やぐらに行く。やぐらとは岩石に穴を掘って墓とするのをいう。ついで「岩船地蔵堂」を見る。頼朝の長女の大姫の守り本尊を祭る。大姫は木曾義仲の長男義高の許婚であったが、義仲の反乱で義高は殺されてしまう(1184年・寿永3年)。姫は悲しみのあまり世を去る。鎌倉に七つの切り通しがある。屈折した急な坂で岩などがあって騎馬では通れないようになっている。上から弓矢を射掛けたり石を落としたりして攻めて来る敵を防ぎやすくしてある。その一つ化粧坂(けはいさか)切り通しをのぼる。なるほど登りにくかった。寿福寺を裏から入る。北条政子の墓も源実朝の墓もある。いずれも五輪塔である。万物は地、水、火、風、空の五大要素から成り立つという仏教の宇宙観による。園部君が懇切に説明する。付近には明治38年、日露戦争で戦死されたと思われる「陸軍砲兵上等兵」や昭和17年、大東亞戦争で戦死された「陸軍衛生一等兵」の立派な墓もあった。高浜虚子の墓も見かけたので、頭を下げた。夕刻、去り難き気持ちを抑えつつ小学校唱歌「鎌倉」の「建長円覚 古寺の/山門高き 松風に/昔の音や こもるらん」を口ずさみつつ帰途についた。

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