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小さな個人美術館の旅(62) 玉堂美術館 星 瑠璃子(エッセイスト) 練馬インターから関越自動車道に入った。 昨年の十一月から四ヶ月間、川越の病院に入院していた友人を見舞って通い慣れた道だ。食道ガンで、友は長い苦しみの果てに亡くなった。二週間が経ったが、この道へ来れば悲しみはいっそう生々しく、胸がしめつけられるようだ。けれども晴れた冬空の下にいつもくっきりと見えていた秩父の山々が霞んでいるのは私の涙のせいばかりではない。三月に入って間もないというのに、今日は四月の下旬なみというぽかぽか陽気。春霞が一面にたなびいているのだった。 途中から圏央道に入ると、終点が青梅だ。そこからは片道一車線の青梅街道をえんえんと行く。梅の花の咲くおっとりと鄙びた山あいの町や村を過ぎて進むと、御岳(みたけ)山の上り口近くに玉堂(ぎょくどう)美術館があった。そうそうと流れる多摩川の源流をはさんで青梅街道と吉野街道が平行して走っていて、美術館正面は吉野街道ぞい。打ち重なる山々を眺めながら渓流にそって歩き吊り橋を渡ると、そこが青梅街道ぎわの御岳駅という雄大なロケーションである。 美術館は築地塀にかこまれた堂々たるたたずまいだ。建築も庭園も、文化勲章受賞の建築家吉田五十八の手になるもので、皇太后(当時の皇后陛下)をはじめ、全国の玉堂ファンの寄付によって竣工したという。 1961年(昭和三十六)、玉堂没後四年目のことであった。中へ入ると、まず右手の壁面いっぱいに六曲一双の「紅白梅屏風」。右双に白梅の古木を、左双にそれよりやや細目に紅梅のリズミカルな枝を描いた絢爛たる金屏風だが、すがすがしく晴れやかな空間のどこかに一抹の憂いを感じるのは私だけだろうか。左手は、このあたりの風景を描いたと思われる「渓村春色」や「春流」など早春の風景が、うっすらとした春色に並んでいる。つきあたりは「春宵」と題された双幅の軸。薄暮のなかに春の月の浮かぶ一幅と、桜の枝の一幅の、一切の無駄を排したこれまた神韻縹渺(ひょうびょう)たる世界であった。 陳列室を出て、枯山水の庭を眺めながらそこにも作品の陳列された渡り廊下をゆくと、突き当たりが画家の画室。生前のものを移築したものだろうか、その整然たるたたずまいと帚目も清々しい白砂の庭がいかにも調和を保って美しい。岸辺の桜や楓が塀越しに見え、耳をすますと、微かな川音はここまで聞こえた。花や紅葉の季節はどんなに見事だろう。 川合玉堂は 1936年(明治六)愛知県葉栗郡外割田村の生まれだ。その地の豪族で由諸ある家柄の出の父川合勘七と、尾州藩明倫堂の監学佐枝市郎右衛門の三女であった母かな女の、遅くなってできた一人っ子として裕福ななかにも折り目正しい少年時代を過ごした。病弱で繊細な少年は早くから画才をあらわすが、十八歳で父を、二十歳で母を、さらにその二年後には親身になってなにくれとなく面倒を見てくれた師、幸野楳嶺をあいついで亡くしてしまう。父母なく師なく、母の生存中から経済的な基盤も失って丸裸になってしまった青年は、くじけそうな心にむち打ってただ一心に絵画の道に励んだのだったろう。凛として気高いその作品のなかに憂愁の影を見るとしたら、それは意識するとしないにかかわらず、若くして愛するものを失った悲しみからであろうか。ここ奥多摩の地に居を構えたのは、六十七歳で文化勲章を受賞した四年後のこと。時代の波に置き忘れられたような山あいの村で、散歩とスケッチを日課としつつ、制作ざんまいの日々を過ごした。亡くなる年まで絵筆を放すことがなかったという。自然ととけあって生き、自然に帰るような死であったのだろう。享年八十四歳。 私はまたしても、志半ばで倒れた友を思った。一年以上も歩行を奪われてベッドに伏し、苦しみのなかに呼吸すらままならず、しかし意識だけは鮮明に保ち続けて彼は死んだ。 帰路、青梅街道をさらに登ってゆくと奥多摩湖に出た。山の湖は、青い空や木々の影を映して静まりかえっていた。
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