著名な戦史研究家で作家の児島 襄さんが3月27日亡くなった。享年74歳であった。新聞記者出身の戦史作家として注目、その著書を愛読した。
手元にある「東京裁判」上、下(中公新書)を読みなおしてみる。この単行本の原稿を「中央公論」に連載したのが昭和45年4月から46年4月までである。30年も前に児島さんは東京裁判は単に戦勝国が敗戦国を裁いた茶番劇であることを見抜いている。更に、日本が行った戦争はすべて侵略戦争とみなして日本人が国家意識と軍事問題に関して極度の萎縮作用を示す姿勢がうかがえると指摘している。
インド代表判事ラダ・ピノード・パルが東京裁判の違法性と起訴の非合理を訴えたのは有名な話だが、フランス代表判事アンリ・ベルナールも全員の無罪を主張し、被告たちが「不当な責任」を追及されたと言っていることをはじめて知った。まことに迂闊なことである。
昭和23年12月23日午前零時から巣鴨拘置所で死刑判決を受けた7人は処刑された。
土肥原 賢二大将、東条 英機大将、武藤 章中将、松井 石根大将、板垣 征四郎大将、広田 弘毅元首相、木村 兵太郎大将、の順に絞首刑に処せられた。
この時、毎日新聞社会部の警察回りの記者だった私は社会部の先輩に連れられて、22日夜10時ごろから巣鴨プリズンに張り込んだ。7人が収容されている第一棟を注視しておれば、処刑の動きがつかめるからである。
「東京裁判」下によれば、当日の午後7時、巣鴨拘置所の門前には内外記者、カメラマンが郡集していたとある。私たちは正門より離れた有刺鉄線のそばから第一棟がみやすい場所にいた。他社がいるのには全く気がつかなかった。
午後12時近く第一棟で人の移動する気配が感じられた。
東条大将は「我ゆくもまたかへり来ん国に酬ゆることの足らねば」と辞世の句をのこした。
禁固7年の刑を受けた重光 葵元外相は「黙々と殺され行くや霜の夜」と哀悼の句を読んだ。
児島さんの本で愛用しているのは「戦史ノート」(文芸春秋、1980年発行)である。たとえば、「ヒトラーの税金」「三八式歩兵銃」「ソーセージと売春婦」といった戦史外伝が紹介されていて面白いからである。
惜しい人をなくしたものである。心から哀悼の意を表する。
(柳 路夫) |