母が迎えにきて疎開先の静岡県から東京に戻ったのは1945年の11月、終戦から僅か3ヶ月のことでした。その時、私は小学校の2年生。
当時の記録映画やグラフィック・レポートなどを見ますと、東京の殆どが空襲の大被害を受け、特に3月10日の下町の大空襲では多くの焼死者や罹災者があり、中心街は瓦礫の山で、家も職もなく飢えに苦しむ人たちも多かったようです。
しかし、幸いなことに移り住んだ世田谷の池尻あたりの住宅地は、焼失を免れてまだあちこちに空き地もあり、父は玉川通りと旧道に挟まれた30坪ばかりの、やや変形の土地を借り受けて野菜作りを始めました。肥料は生ゴミと取り立ての馬糞。あのころはまだ荷馬車がカッポカッポと旧道を往来していましたから、馬車の通る時間を計って、箒(ほうき)と塵取りを携えて待つのです。
つばの広い麦藁帽子に黒いゴム長を履いて、暇さえあれば畑を見回っていた長身の父の後ろを、私はよくスキップをしながらついて回ったものです。先っぽに黄色い花をつけた小指ほどの小さなキュウリ、2センチほどの絹サヤが翌朝には5、6センチにもなっている驚き。初めてもいだ“歯っかけ”のトウモロコシ、かぼちゃ、馬鈴薯やトマト、収穫の野菜が食卓を満たす以上に、私の心をも満たしてくれました。
でも残念なことに、この素晴らしい農園は、持ち主が土地を手放して、そこに家が建つことになって、2年ほどで終り、手持ち無沙汰になった父は、今度は台所に立ちました。それもかなり本格的で、こんにゃく玉からこんにゃくを作ったり、納豆やパン作りも手がけました。発酵は押入れの布団の間。
ちょっと粉っぽい味のカスタードクリームも父の自慢のひとつでした。天ぷらも何処でどうマスターしたのか、カラッとした衣が種のまわりにうまく散っていて、まるで本職はだし。
またある日、河岸から虫鰈(むしがれい)をたくさん仕入れてきて、博覧会の万国旗みたいに綱に吊るして、美味しい鰈の干物を作ってくれました。こうなると、もともと料理の不得手な母は、すっかり城を明け渡して編物などしていましたっけ。
戦後の物の不足していた時代でしたから、贅沢こそできませんでしたが、この父のお陰で食の楽しみを知り、心豊かに暮らせたことをとても幸せに思っています。
そして、この期間、父にとっては人生の中休み。若い時から培った物を戦火によって多く失い、また晩年に向けてひたすら走り続けた仕事人間の、痛手を癒しながらの充電期間ではなかったかと―。無論、当時の私に分る訳はなく、それでも子供心に寡黙な父の後ろ姿から、男の強さと優しさを充分に感じていました。
父が死んで30年になりますが、ずっと父の無言の教えをなぞらえて来たように思います。この年になってもまだ、クリームパンに目がなく、土いじりをしている時が一番気持ちが安らぐのです。
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