2000年(平成12年)9月20日号

No.120

銀座一丁目新聞

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茶説

ユダヤ人を救った軍人もいた

牧念人 悠々

 外交官 杉原 千畝さんがリトアニアの領事代理として、日本通過ビザを発給し、多くのユダヤ難民を救ったのは有名な話である。
 日本人の中にはこのほかにもユダヤ人に好意を持ち、ユダヤ民族のために力を尽くした軍人がいる。
 昭和11年3月、ハルピン憲兵隊の特高課長として赴任した河村 愛三少佐(陸士30期)は、10年前にもハルピンに特派されており、ユダヤ民族の独立国家への願望の強さを知り、ユダヤ人同士の相互援助と連帯の強固さをハダで感じユダヤ人に深い理解と愛情をもっていた。
 この年の夏、ユダヤ人が理由なく敵視され圧迫される事件が起きた。これは満州建国の精神である民族協和の理想にもとるとして、ハルピン特務機関長、安藤 麟三少将(陸士18期)を説得、ユダヤ人経営者の一人息子を殺害したにもかかわず軽い罪で保釈されていた白系ロシヤ人のギャング団の一味をことごとく満州国外に追放した。
 また、当時、北満一帯にペストが流行したが、これをユダヤ人の謀略だという密告で捕まったユダヤ人たちを無実として全員釈放した。
 憲兵といえば、頭から「悪人だ」ときめつける者が少なくないが、それは誤りである。
 河村少佐はユダヤ民族解放運動の指導者であるカウフマン博士と知り合いとなり、博士から極東大会をハルピンで開きたいと頼まれる。後任の特務機関長の樋口 季一郎少将(陸士21期)に事情を打ち明けた。ポーランド公使付武官の経験をもつ樋口少将はこれを許可した。かくして第一回極東ユダヤ人大会が昭和13年1月15日、ハルピン市一路街にある商工クラブで開かれた。
 東京、天津、上海、香港に在住するユダヤ人まで続々集り約2000人の大集会となった。
 樋口少将はユダヤ人の悲境に同情をよせ、ユダヤ人の優秀さを激励して間接的にドイツのユダヤ人弾圧を批判しユダヤ人に祖国を与えよと講演して、万雷の拍手を浴びた。
 さらに、13年2月、満州里と国境を接したソ連領オトポールに約二万人(数千人の説もある)のユダヤ人難民が続々と集結してきた。満州国政府は国内通過のビザを拒否した。 野宿同然のユダヤ人の間から凍死者が出る有様で、カウフマン博士が河村少佐、樋口少将に助けを求めた。昭和12年11月には日、独、伊防共協定が締結され陸軍の親独体制は日々強化されつつあった。
 樋口少将は決断し独断で外交的処理を行い、12両編成の列車13本をオトポールにおくり彼らを救出した。
 この決断にドイツ外務省から抗議がきて問題となった。東条英機関東軍参謀長(陸士17期)が樋口少将を査問した。少将はドイツ国内におけるユダヤ民族の危機とシベリアで凍死しかかった実情を詳細に説明した。東条参謀長は適切な措置と言う判断をし不問に付した。このことは軍事機密として処理されたため外部に漏れなかった。
 樋口少将の正義の決断のかげに河村少佐のユダヤ人に対する人道愛があったことを誰も語らなかったと「日本憲兵正史」(全国憲友会連合会編集委員会編、767ページから772ページ)は嘆いている。
 第一回極東大会の際、樋口少将は同期生で陸軍きってのユダヤ通である安江 仙弘大佐を招いてユダヤ人の事後措置を頼んでいる。
 このような背景のもとにユダヤ人を公正に取り扱う「ユダヤ人対策要綱」が昭和13年12月13日五相会議で決定される。要綱によれば、ドイツと同じように極端に排斥するのは日本が多年主張してきた人種平等の精神に合致しないとして、方針として日、満、支に住むユダヤ人に対して公正に取り扱い、特別に排斥するような処置をとらないなど三項目をかかげたのである。
 これをみると、杉原領事代理もこれに従って処理したにすぎず、訓令に反して独自の判断でビザを発行したという通説は間違いである事がわかる。
 しかし、杉原さんは領事館閉鎖後もホテルでもベルリン向けに走りだした汽車のなかでもビザをだした行為は一介の官僚とはおもえないすぐれて人間的と賞賛される。私たちは日本の国の非ばかりを強調せず、美点、善行、優れた資質をもっと主張すべきだと思う。

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