2000年(平成12年)3月10日号

No.101

銀座一丁目新聞

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追悼録(1

 歌手の渡辺はま子さんとは、引き揚げ記者(日赤記者クラブ、27年暮れから28年にかけて)だった関係で知り合った。渡辺さんと日赤の島津忠承社長との対談を企画したりした。

 渡辺はま子さんといえば、「チャイナもの」で知られている。頭のてっぺんか出てくるような高音が魅力であった。「支那の夜」 「蘇州夜曲」「何日君再来」などが人々の心を捉えた。「モンテンルパの夜は更けて」(作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康)はむしろ異質である。しかし、渡辺さんは支那派遣軍将兵慰問中、敗戦を迎え、抑留され、天津からの引き揚げ者。戦後、「港が見える丘」を出すとともにいち早く、巣鴨刑務所の戦犯たちの慰問されたこころやさしい人であった。「モンテンルパの・・」を歌われても何の不思議はない。

 このいきさつについてこの歌を作曲した伊藤正康さん(陸士56期,元陸将)が「偕行」3月号に秘話を書いている。昭和27年4月はじめ,比島の戦犯たちがいるモンテンルパの刑務所で,みんなの気持ちを明るくしようと、加賀尾秀忍教誨師が「歌でも作って歌いましょう」と提案した。代田さん(長野出身、農民文学青年だった)が詩を作り、伊藤さんがオルガンを引いて曲をつけた。4月28日の講和発効日に、伊藤さんがオルガンを引いてその歌を自ら歌った。拍手喝采とおもいきゃ仲間たちの反応はにぶかった。

 フイリピン戦線で伊藤さんの同期生は254人戦死している。死をまぬがれた伊藤さんはマニラ軍事法廷で原住民虐殺の罪を問われ無実にもかかわらず死刑の宣告を受けた。死を待つだけの獄中生活、私たちの想像を絶する。

 加賀尾教誨師は渡辺さんとは「すがも」慰問で知り合い文通があつった。そこで渡辺さんのところへこの詩と曲を送った。8月下旬、渡辺さんからこの歌をレコード化してポータブル蓄音機とともにレコードを刑務所におくってきた。レコードを聞いて一同は賛嘆の言葉を惜しまなかった。伊藤さんは「歌は歌手による」いまもそう思っている。

 この年のクリスマスに渡辺さんは念願のモンテンルパを訪問、その歌を涙ながらに熱唱する。3番の歌詞がいい。

モンテンルパに夜は更けて/つのる思いに遣るせない/遠い故郷を偲びつつ/涙に曇る月光に/優しき母の夢を見る

 もちろん曲も良い。死の深淵を見た人の心の叫びがある。

 全員が釈放されたのは28年7月。その月の22日一行を乗せた「白山丸」が無事横浜港に帰ってきた。ところが、検疫待ちのため横浜港になかなか接岸しない。たまりかねた私たち毎日新聞の取材陣は船を予め借りていたので、船から白山丸の船頭にある取っ手を攀じ登り、必死の思いで船内に入り一番乗りしたのを思い出す。「横浜沖海戦」と呼ばれた取材であった。忘れていた取材を渡辺さんは思い出させてくれた。いずれにしても、歌手、渡辺はま子さんはフイリピンの日本人戦犯の釈放に尽くした功績は大きいものがある。その渡辺さんは昨年12月31日 この世をさられた。(柳 路夫)

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