1999年(平成11年)8月20日号

No.82

銀座一丁目新聞

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茶説

「克死」・「和死」・「利死」

−死を考える−

牧念人 悠々

 「死」について考える。江藤淳さんが自死(7月21日)して以来、気になってしようがない。江藤さんは、昨年11月、ガンでなくなった妻、慶子さんとのことを「文芸春秋」5月号に発表した。すごい愛妻家がいるものだと感心していたところ、原稿用紙(B4判)一枚の遺書を残してこの世を去った。余りにも印象が鮮烈である。

 性来、鈍感だから「死」について余り考えない。しかし、10代の後半、真剣に考えた。敗戦の直前、士官候補生として振武台(埼玉・朝霞)、相武台(神奈川・座間)で学んだ。“いかに立派に死ねるか”を己に問うた。敵と闘ってぶざまな死に方はしたくなかった。

 敗戦で生きながらへていま、天命を全うしたいと思う。「恥を包み、恥をさらしても」生きたい。基本的には自殺は意にそわない。

 江藤さんの自死をみると、なるほどと肯定したくもなる。ある精神医学者はストレスを数量化した。それによると、もっとも高い100は配偶者の死であった。慶子さんとの関係を「一卵性夫婦」と言い切っている江藤さんにしてみれば、妻のあとを追うのは自然の成り行きかもしれない。

 話が変わるが、雪国では人が雪に立ち向かう場合、三つの方法があるといわれている。克雪、雪に克つ。和雪、雪と和す。利雪、雪を利する(童門冬二著「西郷隆盛の人生訓」PHP文庫より)。

 死についても同じことが言えるのではないか。「克死」、死に克つ。「和死」、死と和す。「利死」、死を利する。死を恐れては何もできない。断乎として闘うべきである。ガンの告知を受け死期がわかったら、死と仲よくする。死と共生するのである。こんな気楽なことはない。

 死を踏み台として、よい仕事をする。ボランティア活動でもよい。執筆でも作詩、作歌でもいい。死ぬ気になれば、人間はどんなこともできる。

 「死」とは正しく向きあつべきだと思う。私は一応、120才まで生きる目標をたてている。「君、死に給うなかれ」。

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