銀座一丁目新聞

追悼録(

ひとりの「みはた会」

柳 路夫

同期生安田新一君にメールを送る(4月3日)。「4月3日(土曜日)靖国神社に参拝してきました。2年前までは歩兵321連隊(広島二本松駐屯)が終戦時軍旗を隠して保存、日本陸軍ではただ1つ残った軍旗を中心として「みはた会」が開かれておりました。万年幹事がなくなったため中止となりました。昨年から私が一人で「みはた会」を開いております。本日も一人で偲んできた次第です」。

即座に安田君からメールが来た。「ご苦労さまです。最後の一兵ですね。奉賛会の一員として敬意を表します」。

「みはた会」についてもうすこし説明する。終戦時の昭和20年7月、佐倉で編成された歩兵321連隊の連隊長、後藤四郎さん(陸士41期・陸軍中佐)は平成17年1月97歳で亡くなられたが、当時の部下たちと戦後、後藤さんと知己を得た人々が集まって毎年のように会合を開いていた。それが「みはた会」である。後藤さんが亡くなられた後も続いていた。後藤さんは終戦時軍旗を奉焼せよの軍命に反して日本陸軍の中で「奉焼」しなかった。このため歩兵321連隊旗だけが残された。戦後作り直された軍旗は存在する。天皇陛下からご下賜された軍旗は321連隊の軍旗だけで現在、遊就館に奉納されている。

「みはた会」は当時連隊旗手であった石松勝さんが世話人で毎年4月3日に開かれてきたが3年前に石松さんが亡くなられてから会は中止となってしまった。そこで昨年から私一人で靖国神社に参拝していつも会場にしていた「アルカデア市ヶ谷」で食事をしている。

今年は参拝後、友人と一緒にここで昼食をとった。

この日の靖国神社は参拝客が多かった。若い人たちの姿が目立つ。社務に掲示された大正天皇の御製は「國のためたふれし人の家人は いかにこの世をすごすなるらむ」。遺書は陸軍大尉野本憲志命が記したものであった。野本大尉は愛媛県八幡浜市出身、陸士55期生、享年22歳であった。昭和19年7月18日、マリアナ諸島・サイパンで戦死とある。戦史を調べてみると野本大尉が戦死される12日前の7月6日、斎藤義次第43師団長(陸士24期)、7月8日には中部太平洋艦隊司令長官南雲忠一海軍中将(海兵36期・戦死後大将)がそれぞれ自決された。残存約3千名の日本軍は最後のバンザイ突撃をして玉砕した。生き延びた日本軍はその後もゲリラ戦を展開している。野本大尉が戦死された7月18日は東條内閣が倒れた日であった。陸士55期は昭和16年7月1755名が卒業、大東亜戦争初戦の各戦場では最前線の小隊長を努め18年の3月に中尉となり、各地で奮戦し地上兵科で518名、航空で419名合計937名が戦死している。

参拝後「おみくじ」を引いた。「吉」であった。「今日用ふるところの材木は、すなはち前人の植うるところ、しからば、何ぞ後人のためにこれを植ゑざるをえん」(二宮尊徳)。後輩のためになにか仕事をしておけという戒めのようである。あと僅かだがしかと心得ておきたい。

「みはた会南無阿弥陀仏われひとり」悠々