銀座一丁目新聞

安全地帯(

新聞は広島原爆投下をどう報じたか

信濃 太郎

この1年間、戦中戦後の「新聞報道」について検証をしてみたい。ネットに押されて新聞は部数を減らし続けている。新聞の使命が、1報道、2解説、3評論であるとすればこの使命を忠実に続ける限り新聞の存在意義がある。第1回は「広島原爆報道」を取り上げる。

昭和20年8月8日の毎日新聞は一面トップ、4段見出しで「B29、広島に新型爆弾」と大本営発表(8月7日15時30分)を掲載する。「昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたりニ、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中。8月6日午前8時すぎB29少数機は広島に侵入少数の新型爆弾を投下した。そのため同市の家屋が倒壊、各所荷火災が発生した。(以下略)原爆投下の文字もなければ広島の惨状について全く掲載していない。国民の戦意低下を考慮したのであろう。私はこの時、陸士59期の歩兵科の士官候補生として西富士演習場で野営中であった。7日の夜、風呂場で『新型爆弾広島に落ちて多くの被害を出した』と聞いた。

もちろんアメリカの新聞は「原爆投下」を報じた。8月7日火曜日、ニューヨークタイムスは「原爆第一弾日本に投下 破壊威力はTNT2トンと同じ」と書いた。日本で一番早く「新型爆弾」が原爆と知ったのは私の知るところ当時検事をしていた向江璋悦さん(後、弁護士)である。8月6日正午過ぎ新聞号外が『広島へ新型爆弾が投下され被害大なる見込み』という号外がでた。その時、巣鴨刑務所の東京地検・向江検事の部屋に思想犯として取り調べを受けていた理論物理学者の武谷三男さんが飛び込んできて『広島へ落とさた新大型爆弾は原子爆弾に間違い有りません』という。「どうしてですか」と問うと「号外では1機できて爆弾を投下したとありますがあれは原子爆弾を落下傘に吊り下げ、空中で爆発させるのです。空中爆発の影響を受けないような場所まで飛行機が立ち去ったときに空中爆発させ被爆地域を広くするためですといった」という(向江さんの著者『法曹漫歩』より)。日本の物理学者が一番早く『原爆投下』を知ったというよりニュースを聞いた途端『原爆』とわかったのであろう。当時大本営の情報参謀・堀栄三少佐(陸士46期・陸大56期)は8月7日午前1時過ぎワシントンでトルルーマン大統領が発表した放送内容を特別情報部がキャッチして『新型爆弾』の正体を知る(同氏の著書『大本営参謀の情報戦記』・文春文庫)。ラジオ受信の傍受で東郷茂徳外相ら外務省幹部も「原爆投下」の事実を知った。東郷外相は「原子爆弾か。これで戦争は終わりだ」とつぶやいたという(阿部牧郎著『危機の外相東郷茂徳』新潮社刊)。徳川夢声は「夢声戦争日記」(七・中央文庫)の8月6日の項(月曜日 晴 暑)ですでに「原子爆弾の如きもの」と書いている。当時毎日新聞社会部長森正蔵は「あるジャーナリストの敗戦日記」(ゆまに書房)8月11日(晴れ)の項に「新型爆弾は、ウラニウムを使ったものであった。それは30キログラムの水と10キログラムのウランと10キログラムの起爆薬品からなっているという」と記している。国民は新聞より先に噂の広まりで広島・長崎の「原爆投下」を知った。更には8月10日には東京にも原爆が落とされる噂まで流れた(「夢声戦争日記」より)。毎日新聞に「原子爆弾」の文字が現れたのは8月14日の紙面であった。チューリヒ発の同盟の記事を掲載したものである。それによれば「大国の利己的政策は大国が原子爆弾その他の最も近代的な兵器を利用して戦争を起こす危険が増大したためいよいよ露骨になろう。また原子爆弾を独占しうるのは一時的なことに過ぎず連合国だけがいつまでもこの特権を享受しうると考えるのは誤りだ」と、新聞記者の投稿文を紹介した。それを決定づけたのは8月15日の終戦の詔勅であった。「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し被害の及ぶ処誠に真に図らざるに至る」とある。原文を見るとこの箇所は後から書き添えられたものであった。

真実は伝えるべきものであり其の判断を権力がするのでなく国民に任せるべきものだと「原爆報道」が教えている。憲法21条2項で「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」で規定する理由である。