小さな個人美術館の旅(27)
ベルナール・ビュフェ美術館
星 瑠璃子(エッセイスト)

 沼津インターで高速道路を下り、うねうねと丘をのぼっていったところにビュフェ美術館はあった。北に真っ白な雪をいただく富士、南は枯色のゆるやかな傾斜がやがて海に接する広大な駿河平の丘陵地帯である。桜咲く春、若葉の五月や紅葉の秋など、それぞれの季節の美しさが眼に浮かぶ素晴らしいロケーションだが、私はどんな木や花よりも、全ての葉を落とし尽くして凝然と立つ冬枯れの木に魅かれる。そんな木々に囲まれた美術館は、白亜の外壁に黒々と書かれたビュフェの筆跡「ミュゼ・ベルナール・ビュフェ」がただひとつの装飾である超モダンな建物だった。

ベルナール・ビュフェ美術館

 中へ入ると、まず自画像が並んでいた。初期の、いわば「ビュフェ以前のビュフェ」ともいうべき作品から、あの刃物で切りつけたような黒の輪郭線で描かれた自画像まで、いずれも冬の木のように落とせるものは全て削ぎ落として並んでいる。なんと陰鬱で、しかも清冽な絵だろう。贅肉、というよりは肉そのものの全く感じられない胴体と、極端に長い手足と、どこを見ているのか分からない無表情な黒い目で私たちに突き刺すように迫ってくるこんな自画像を、他にだれが描いただろうか。

 自画像のスペースをいわば導入部として、次の部屋からは初期、すなわちビュフェが世にでた戦後間もない四十年代の作品から、五十年代、六十年代……と、広い美術館の殆ど全てを使って九十年代まで続く時代を追っての展観だが、初期の作品をこんなに一度に並べたのは今度が初めてという。いい時に来たなあ、私はどの時代のビュフェより、この頃のビュフェが好きだ。

 1947年の「風景」は、ビュフェ十九歳の作品。どこかの海辺の凍りつくような荒涼たる風景である。羽をむしられた丸裸の鶏が黒い机の上に投げ出された「二羽の鶏」はその翌年。皮を剥がれてまっさかさまに吊り下げられた牛と、それを見つめている半裸の少年を描いた「肉屋の少年」は、またその翌年の作品だ。いずれも色といえば灰色と黒と白だけ。余分なもの一切をきっぱりと排除した画面である。余分なもの?そう、ビュフェにとって、ここに描かれたもの以外は全て不用のものだった。というより、もともと彼には、これ以外なにも見えなかったではあるまいか。あるいは、はじめから、なかった。

 ベルナール・ビュフェは1928年のパリ生まれだ。十一歳のとき第二次大戦が始まった。44年、十六歳のとき、パリは連合軍によってナチス・ドイツからようやく解放されるが、その年、彼はただ一人の理解者だった母を脳腫瘍で失う。「学業不振」で中学校すら中退状態になってしまうような少年ビュフェを理解し、あの戦慄すべき占領下のパリで夜間講座のデッサンを習わせたり、苦しい生活の中から官立の美術学校へ入れてくれたりした母を。彼は、母の死後、その美術学校もわずか一年足らずで退学しなければならなかった。

 年譜によれば、ビュフェの画家としてのスタートはその二年後の46年、サロン・デ・モワン・ド・トランタン(三十歳未満展)に出品した「自画像」となっているから、それがいま目の前にある自画像の一つなのだろうか。翌年、早くも初めての個展が開かれて、出品作「羽をむしられた若鶏」がパリ国立近代美術館の所蔵となり、翌48年には、二十歳にして国内最高の賞である批評家賞を受賞、貧しい無名の少年に過ぎなかったビュフェは、まさに彗星のごとく戦後のフランス画壇に登場したのである。

 それにしても、第二次世界大戦の終わったばかりの荒廃したパリで、これら一切の虚飾を排した作品がどれほど人々に深い共感をもって迎えられたか、どんな説明を聞かなくてもよく分かる。後のビュフェ自身の言葉を借りて言えば、「絵のよしあしなんて、問答無用ではないか。……一秒間で勝負は決まってしまう」。そしてそれはパリの人々に限らず、この過酷な時代を生きた世界の全ての国の人々にも同様だった。ビュフェ美術館を創設した故岡野喜一郎氏もその一人だった。二十八歳で終戦を迎えた氏は、ビュフェとの出会いを次のように記している。

 「私は、感動して彼の絵の前に呆然と立ちつくしたことを思いだす。研ぎすまされた独特のフオルムと描線。白と黒と灰色を基調とした沈潜した色。その仮借なさ。匕首の鋭さ。悲哀の深さ。乾いた虚無。錆びた沈黙と詩情。そこに私は荒廃したフランスの戦後社会に対する告発と挑戦を感じた。当時のわれわれ青年を掩っていた敗戦による虚無感と無気力さのなかに、一筋の光芒を与えてくれたのが彼の絵であった。国土を何回も戦場にし、占領され、同胞相殺戮しあったフランス。その第一次世界大戦の激しい惨禍のなかから、このような感受性と表現力をもった年若き鬼才が生まれ出たことに畏怖の念をいだいた」(「ビュッフェと私」)

 後に駿河銀行の頭取となる岡野氏は、私財をなげうって一点、また一点と作品を集め、1973年、世界で初めてこの膨大なるコレクシションによるビュフェ美術館を開いたのである。そして二十五年――。岡野氏はすでに亡いが、今年七十歳になるビュフェはまだまだ元気に絵筆を握っていて、この美術館にも何度となく足を運んでいるという。次第に明るさを増して、むしろ絢爛たる近年の画風には賛否両論があるようだが、変わったのはビュフェではなく、世界だった。しかし、その華麗な色彩の奥に、冷たい虚無が横たわっているように感じるのは私だけだろうか。

 美術館を出ると、短い冬の日はすっかり暮れかかり、「ビュフェの森」には冷たい風が吹いていた。少し行ったところに小さな物見台があって、急な階段を登ると、はるか下方に微かに海が光って見えた。黒々とした木々の林と、屹立する美術館の白い建物と、鈍色に光る海と。それはそのまま初期のビュフェの風景のように、静かに広がっていた。いつの時代にも、地球上には戦争があり、飢えがある。人間が人間である限り、それは形を変えていつまでも続くのだろうか。

ベルナール・ビュフェ美術館

 住 所 静岡県駿東郡長泉町駿河平 TEL 0559-86-1300,1303
 交 通 JR三島駅から富士急バス駿河平行きで「文学館・美術館入口」下車、徒歩5分
 休館日 月曜日(祝日の場合はその翌日)と年未年始

星 瑠璃子(ほし・るりこ)

 東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。

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