銀座一丁目新聞

追悼録(

毎日新聞物故社員追悼会

柳 路夫

このほど開かれた「毎日新聞物故社員追悼会」に参列した(9月18日・東京・一橋毎日ホール)。今年の合祀者は279柱。90歳以上で亡くなられた方が54柱もいる(100歳以上の方が2名)。東京・大阪・西部と勤務したので知っている方たちが知らぬ間になくなっている。不義理をした。祭壇に花を手向けご冥福を祈る。祭壇に飾られた遺影の中に伊藤光彦君(享年81歳)があった。大阪社会部で一緒に仕事をした仲間である。私が大阪社会部にいたのはわずか1年半に過ぎない(昭和38年8月から昭和40年1月まで)。思い出はいっぱいある。大阪は私の誕生地でもある。単身赴任であった。麻雀で遅くなった際、よく部員の家に泊めていただいたので社会部の半数のぐらい奥さんの顔を知っている。伊藤君は麻雀をやらなかったが家が同じ方向であった。子供が生まれたと言うので立ち寄った。昭和38年11月下旬であった。まだ赤ん坊の名前をつけていないと言う。聞けば誕生日は11月23日であった。それなら米国の大統領ケネディ暗殺の歴史的日に生まれたのだから『史子』(ふみこ)とつけたらどうかと提案した。伊藤君は素直にこの提案を受け入れ、娘さんの名前を『史子』と名付けた。その娘さんも今は55歳になる。伊藤君はその後、東京の外信部に移つリ、ボン特派員として活躍した。私が編集局長の時、夕刊で『同時進行ドキュメント』とい連載の第1回目を担当してもらった。伊藤君は当時ドイツで起きた実業家ハンス。マルテイン・シュライヤーが赤軍派に誘拐された事件を取り上げた(1977年9月5日発生)。極左。赤軍派はシュライヤーの生命と引き換えに仲間の釈放を求めたが西ドイツ政府は相手にせず、1ヵ月半後にシュライヤーは遺体で発見された事件である。刻々変わる事件をよくまとめたものだと感心した。

彼には『ドイツとの対話』(毎日新聞刊・昭和56年9月25日発行)の著書がある。この中で蕪村の『凧(いかのぼり)きのふの空の在リどころ』を紹介、俳句の国際性について論じている。面白いのはツァヘルト・ボン大学教授(日本文学・故人)が俳句特有の17音韻律が『ドイツ語に内在する言語感覚』に合致』していること、俳句的な発想の中に『日独両国民に共通の心の琴線に触れる』何物かがあるというのだ。言語というものは系統を異にしても『57調』の音律は外国の「ポエジー」と基底であい通じるものがある。蕪村の『稲妻や浪もてゆへる秋津しま』は天空の高みから捉えた句であり『高麗舟(こまふね)のよらで過行霞かな』は幻想味あふれるものである。その発想は国を問わず詩人が持つ共通の鋭い感性による。合い通じるのは当然かも知れない。なお蕪村は天明3年(1783年)12月25日この世を去った。享年68歳であった。「我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花」の句を残す。