銀座一丁目新聞

安全地帯(

94歳の誕生日を迎えて感あり。

信濃 太郎

朝夕の涼しさが身にしみる。空の色はすでに秋。庭のみかんの木もいつの間にか青い実をつけた。8月31日は誕生日。94歳となる。両親と7人兄弟の我が家は私ただ1人になった。

『目出たさをありやなしやと8月尽』悠々

孔子は「七十にして心の欲するところに従えども矩を超えず」といった。72歳でなくなった孔子は90歳については何も語っていない。もしなお存命であればおそらく「八十にして口を慎み、九十にして体の欲するところに従えども学怠らず」と述べたに違いない。

己はどうであろうか。90歳を過ぎて食は細くなるし、めまいが時どき起きる。体力は落ちた。体重は50キロから46キロに減る。今年5月、一週間ほど風邪で熱が38度も続き30年ぶりに薬を飲んだ。それ以降気が弱くなった。同期生の1人から体調を心配するハガキを頂いた。それには「授かった命です。好き嫌いは別として〈私が医者嫌いと知ってのこと〉利用できるものは利用していつまでも大切にしてほしい。頼むよ」とあった。昨今は落ち着いた。「間近なり三途の渡し秋の風」と詠んだ。

確かに死期が近づいたことはまちがいない。もう少し先のことだと思っている。直腸がんでなくなった75歳の実業家が死期を教えられたあと見舞客に「死期は教えてもらいたくない。もう一日もう一日と指折り数えているのは余り気持ちの良いものではない」と言われたそうだ。いくら修行を積んだ人でもその日がわかっているのは心穏やかなものではないだろう。

この年になって痛感するのは文字通リ「万巻の書」を読むべきであったということである。本はそれなりに読んだがそれでも足りなかった。知らないことが多すぎる。幸い「銀座一丁目新聞」〈平成9年4月発刊・旬刊〉をネットで開設しているので今後とも学びたい。10日ごとに原稿を4本書く。「書くことは生きること」でもある。時折、同期生の「相模太郎」君や「ごんべい」君の寄稿に助けられている。

同期生の1人が9月に老人クラブで話をするからと言って長文の原稿を送ってきた。この同期生の勉強ぶりには驚くほかない。「間違っていたら訂正してくれ」というからこちらも勉強をせざるをえない。さる日こんなメールを送った。「資料作りが楽しいでしょう。あちらこちら調べる過程が至福のとき。

『憂きし世は つまらぬことの 多ければ 調べる時ぞ 楽しかりけり』詠み人知らず」。

毎日新聞時代の後輩からは時折、本が送られてくる。参考になる。「国鉄JRラグビー物語」(8月20日号「茶説」参照)では旧制福岡中学校のラグビー部を創設した陸士出身の中園淳太郎さんの陸士の期を特定するのに苦労した。調べてみると中園さんは大正8年、大尉で退官している事がわかった。任官して10年ほどで大尉になるので退官の大正8年(この年の卒業生はは陸士31期)を基準として「陸軍士官名簿」をひもといた。陸士20期から虫眼鏡で歩兵科から騎兵、砲兵、工兵、輜重など全兵科を調べたが見当たらなかった。1週間立ってふと誕生日から換算することに思いついた。陸士入学の 年齢を算出してやっと14期にたどり着いた。それで「茶説」が出来上がった次第である。ネットで「銀座俳句道場」を10年間開設してから俳句を嗜む人とびとの交友が始まった。毎月俳誌と歌誌が送られてくるのも楽しみの一つである。ここからも本誌の記事になるネタがしばしば生まれてくる。「俳句は一本の鞭である」(横山白虹)に常に励まされている。

私は『生涯ジャーナリスト』を目指す。歌人・鳥海昭子さんは『書くことは考えること生きること明日の陽の出は6時8分』と歌い上げた。9月1日の陽の出は5時13分〈東京地方〉である。