銀座一丁目新聞

安全地帯(573)

信濃 太郎

権現山物語
最期の本科14中隊の集い

私たち陸士59期生の仲間は90歳を超えた。一緒にいた期間は短かったけれど、同期生の絆は固い。それは寝食を共にしながら「いかに死するか」を考えたからだと思う。73年も前、59期の地上兵科の士官候補生は昭和19年10月14日、神奈川県座間にあった陸軍士官学校(相武台)に入校(前日、埼玉県朝霞にあった予科士官学校を卒業)、此処で学び、激しい訓練を受け、昭和20年8月15日敗戦を迎え慟哭、軍人としての志は挫折、若者達は全国に四散した。戦後それぞれの道にすすみ、日本再建のために微力を尽くしたと自負する。今、陸軍士官学校は米軍キャンプ、陸上自衛隊が駐屯している。此処で最後の本科14中隊会(歩兵2ヶ区隊、工兵3ヶ区隊・註、地上兵科は11中隊から16中隊まであった)を平成20年5月28日に開いた。全国から集まった精鋭、山口弥六区隊長(55期・工兵)、同期生で元陸自第3施設群長の山内長昌君(重砲)をはじめ歩兵・15名(夫人2名)、工兵・16名(夫人6名)航空兵科から特別参加1名の合計34名であった。

当日集合場所は小田急線の「相武台前駅」北口。正午の集合時間に遅れた者は一人もいなかった。座間分屯地の2台のマイクロバスで第4施設群本部へ。展示室で旧陸軍時代の武器、服装、資料、自衛隊の資料などを拝見したあと、米軍が使用している南キャンプへ。此処には私たちの兵舎があった。今跡形もない。米軍の将兵の姿は一人も見かけなかった。

安田田新一君が思いがけないことを言う。「大山方面から空襲してきたグラマンを機関銃で撃ったことがある。29発撃った。鈴木区隊長(正夫・54期)が撃てと言ったのだ。同期生の中で敵と戦ったのは俺一人だけだろう」。

正面ゲート近くにある相武台碑前で記念撮影をする(写真参照)。鳥居だけの雄叫神社跡を逍遙する。昭和12年9月陸軍士官学校が東京・市ヶ谷から移転してきた際にたてられたもの。鳥居の近くに59期生の「在校記念碑」がある。「昭和20年8月30日修業」とある。確かにこの日に長期演習の名目で疎開していた長野県佐久平の望月高等女学校で復員式をして郷里へ帰った。雄叫神社では私たちは毎朝、五ヶ條の軍人勅諭を唱え参拝した。時にはさぼることもあった。

池田一秀君が「あの頃よく腹が減ったが、貴様がここをお参りするとそんなことを忘れるといっていたのを思い出すよ」と話する。私が全く覚えていない。あの頃は高梁飯であった。ひもじい思いをしたことは確かである。大講堂裏に掘られた「天皇陛下の防空壕」(昭和18年完成)の中を見て回る。一度も昭和天皇は使用されなかった。卒業式には天皇陛下の行幸があった。今でも分屯地前の道路は「行幸道路」と呼ばれている。

午後2時から「座間コミュニティークラブ」で大会を開く。招待者は第4施設群長兼座間分屯地司令、深田尚則1等陸佐、同司令業務室長、武田守弘1等陸尉。司会は工兵の園部忠君。はじめに黙祷を捧げ「君が代」を合唱する。山口区隊長の挨拶は感動的であった。「私は人と人のつながりを大切にしております。絆を大切にするのが私の哲学です。満身創痍です。胸は、肺気腫です。携帯用の酸素吸入器を持参しております(この朝、午前10時半過ぎに山口区隊長は携帯酸素吸入器を引っ張って相武台前駅に到着、歩兵・筆安晄君がコーヒー店に案内する)。足腰は、前立腺ガンを患い、袋をぶら下げております。駅にはエスカレーターもエレベーターもありますのでそれを利用しております。外出には不自由しません。利用できるものはすべて利用すべきです。最後まで生きる喜びをもって楽しんでください」

深田一等陸佐は「部隊の伝統は長い歴史の中で作られてゆくものだと思います。良き旧軍の歴史を学びつつ絆を大切にしてゆきたい」と挨拶した。武田1等陸尉は第9次イラク派遣隊員であった。

西村博君は座間分屯地の展示室の充実を訴え、最近53期が出版したCD「萬世に燦たりー14軍神を憶うー」、日支事変従軍記章、陸軍関係の本などを寄付した。安田君も関係の書物を持参する。

各区隊から一人ずつ思い出話をする。上野貞芳君が「放馬(無断外出)」の話をする。上野君の家は原町田にあった。父(上野君が在校中、沖縄で戦死)が昭和15年から16年に陸士の戦術の教官をしていたからである。隔週おきに日曜外出があったが、中隊ごとにもうけられた防衛隊長を命じられたので、空襲警報が発令されたら居合わせて士官候補生を兵舎前に集合させ週番士官の指示を受けねばならない。その待機日に「ぶらぶら時間を浪費してもったいない」と無断外出を決行した。2度放馬した。その都度、警戒警報が発令され、あわてて帰校したが空襲警報は発令されず事なきを得たという。目黒に保証人がいた私にはそのような無謀なことは出来なかった。そのような度胸もなかった。

有賀亮君は松田教官の現地戦術の時、有賀君の昼弁当を見た近くの農家の人が同情して図嚢いっぱいに煎った豆をくれた。松田教官もその図嚢をそのまま見過ごしたという話をする。特別参加したの は航空士官学校に進んだ今泉丈彦君(航空襲撃)であった。「座間を知らないので、この際見学したい」と積極的に出席した。その心根が嬉しい。あっという間に時が過ぎた。最後に「歩兵の歌」、「工兵の歌」、「陸軍士官学校の歌」を合唱する。午後4時、帰りも駅まで座間分屯地の2台のマイクロバスで相武前駅まで送っていただいた。第4施設群の支援は至れり尽くせりであった。 当日の出席者次の通り(記念写真の上の段から紹介する)

今泉丈彦(航空襲撃)、牧内節男(歩兵)川井孝輔(工兵)安田新一(歩兵)小池俊夫(歩兵)筆安正晄(歩兵)有安正雄(歩兵)岡田晄(歩兵)林顕(歩兵)、落合成行(工兵)池田一秀(歩兵)田中幸男(工兵)山田勝美(工兵)園部忠(工兵)上野貞芳(歩兵)西村博(歩兵)小石川譲治(工兵)則武忠雄(歩兵)前沢功(工兵)有賀亮(工兵)赤坂幸春(工兵)岩村真人(歩兵)小石川夫人仙波夫人仙波詮(工兵)、木下幸孝(工兵)木下夫人木許博(歩兵)木許夫人山口弥六区隊長(工兵)岩村夫人岩村夫人園部夫人前沢夫人落合夫人、山口弥六さんが平成21年12月19日なくなられた。12月25日小金井市の幡随院で開かれた通夜に出席した。4区隊の教え子の有賀亮君、川井孝輔君、園部忠君、前沢功君の4人が来ていた。私が歩兵科の同期生を代表して参列した形となった。その席上こんな話が出た。昭和20年4月、隊付きが終わったころである。同区隊のO君の整理棚に隠してあったサツマイモが見つかり大問題となった。寝台戦友であった有賀君は事情を聞かれたが、かばう余地はなかった。演習の時、畑から持ってきたものであった。中隊長が下した処分は「退学」であった。戦後、園部君が山口区隊長に「O君の事件を知っていますか」と聞いたところ「覚えてない」と答えられたという。園部君は「あの人は優等生であった(幼年学校、陸士ともに恩賜であった)。だから“言わざる"“見ざる"“聞かざる"を心得ている。そんな一面があった」と話してくれた。O君は戦後59期生として私たちと差別されることもなく戦後を生き抜いた。

山口区隊長と最後にお会いしたのは昨年11月29日多摩偕行会が小平市の自衛隊小平駐屯地で開かれた時である。酸素ボンベを持参しての参加であった。お元気な様子であった。この日、陸士53期から自衛官を含めて120人が出席した。午前11時からイラク派遣先遣隊隊長であった参院議員佐藤正久さんの「参議院議員一年生の奮闘ぶり」の講演を聞いた。そのあと一同で会食した。山口さんが亡くなられる20日前の会合であった。山口弥六さんは絆を大切にされたとしみじみと思う。