銀座一丁目新聞

追悼録(670)

柳 路夫

金子兜太を偲ぶ歌

友人の宮前和子さんから短歌誌『武蔵野歌人』(第137号)が送られてきた。「秩父の子」と題する宮前さんの短歌は私が尊敬する、亡くなった金子兜太を偲ぶものばかり8首あった(平成30年2月20日死去・享年98歳)。兜太の句を的確に捉え、自分の歌として読み込んでいるのに感心する。金子さんとお会いしたことはないが俳誌『自鳴鐘』を創設した横山白虹さん、現主宰者寺井谷子さんと交流があったので何となく身近な存在であった。宮前さんの短歌を紹介しながら金子兜太さんを偲びたい。

▼「産土の秩父の里に並びたる兜太の句碑に浅き春風」

秩父にはいたるところに兜太さんの句碑がたつ。彼の生き方は大いに勉強になる。春風に身を任せて句碑めぐりもいいであろう。①皆野椋神社「おおかみに蛍が一つ付いていた」②新井武平商店みそ工場「よく眠る夢の枯野が青むまで」③円明寺(明星保育園)「夏の山母いてわれを与太という」④立澤バス停留所「日の夕べ天空を去る一狐かな」⑤満福寺「山峡に沢蟹の華微かなり」⑥水潜寺「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」⑦大黒天円福寺「僧といて柿の実と白鳥の話」

▼「水脈(みを)の果て同志を置きて帰りきし兜太の魂今共にあるか」

「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」兜太

金子さんは海軍短期主計士官として昭和19年海軍に入り、終戦をトラック島で迎える。1年余の抑留生活を送る。

「椰子の丘朝焼しるき日々なりき」(8月15日の作)
「スコールの雲かの星を隠せしまま」兜太
「海に青雲生き死に言わず生きんとのみ」兜太

金子さんは死者に報いるために自分は何かをしなければならない。そのためには積極的な生き方をしなければいけないと思ったと書いている。
昭和21年11月、1年余の捕虜生活を終えて浦賀に上陸、故郷に帰る。

「死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む」兜太

▼梅咲きて庭に来るは青鮫と信じしままに兜太は詠めり」

「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」兜太

この句は第8句集『遊牧集』(蒼土社・昭和56年)に収められている。「春になって命が蘇るという思いを『青鮫が来ている』といったわけで、青鮫イコール命というような気持ちです」と解説する。凡人にはこのような表現はまず出てこない。

「猪が来て空気を食べる春の峠」兜太

▼「無季もよし五七五に波起こす兜太の俳句『好き』と『嫌ひ』と」

自由人の兜太さんは有季定型に拘らない。私が兜太さんを好きな理由である。

「最果ての赤鼻の赤魔羅の岩群」兜太
「谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな」同

▼「与太と呼ばれ慈しまれて母思ふ百四歳で逝きしその母」

兜太のお母さんハルさんは平成16年12月104歳でなくなっている。

「母逝きて風雲枯木なべて美し」兜太

母は16歳の時、医者で俳人の伊昔紅(本名元春・昭和52年88歳で死去)と結婚、17歳で兜太さんを生む。6人の子に恵まれる。体力も気力も強く我慢強く家庭を支えたという。

兜太を「与太か、与太よ」と呼んだ。

▼「腹をだし野山を駆ける秩父の子兜太の姿見え隠れせり」

▼「秩父音頭を父伊昔紅と唄ひ踊るまこと兜太は秩父の人なり」

兜太さんは大正8年9月23日埼玉県小川町の母の実家で生まれ、皆野町で育つ。父伊昔紅が秩父音頭(秩父豊年踊り)を現在の形にした。いわば秩父音頭の家元である。兜太さんは皆野町の名誉町民であった。

▼「ヒヤ飯の銀行員の時代経て兜太は「定住漂泊」を目指しぬ」

昭和18年3月東大経済学部を卒業、日本銀行に入社するも3日後に海軍に応召、主計中尉としてトラック島で敗戦。復員後昭和22年2月日銀に復職、従業員組合に関係して福島、神戸、長崎各支店を務めて東京に戻る。

「蛾のまなこ赤光なれば海を恋う」兜太

昭和31年、第一句集「少年」で現代俳句協会賞受賞、翌年、朝日新聞阪神版俳句選者となる。時の支店長は「お前、覚悟は出ているのか」といい、「日銀での昇進はノーになるぞ。それでもやるか」と忠告した。37歳の時であった。皆子夫人とはすでに10年前に結婚していた。
「銀行員等朝より蛍光す烏賊の如く」兜太
「朝はじまる海へ突込む鴎の死」同
「人生冴えて幼稚園より深夜の曲」同
「暗黒や関東平野に火事一つ」同

金子さんが評論集『定住漂泊」を出したのは昭和47年、53歳の時である。
「もの足りて、人さすらう」という気持ちになる。「定住して漂泊心を温めながら屹立してゆく」と定義する。昭和53年という年は日本が豊かになった年である。スーパーの袋が紙製からポリ袋になった。宝くじの発売総額が1256億円となり、初の1000億円突破を果たす。女性ドライバーが1000万人を突破、乗用車の保有台数は2000台を超えた。兜太さんの頭の中に漂泊に取りつかれた俳人として一茶と山頭火が出てくる。『一茶句集』を岩波書店から出す(昭和58年)。この年現代俳句協会会長の職を横山白虹死去により継いだ。

金子さんは一茶の「天地大戯場」という言葉が大好きだという。清の康熙帝の座右の銘とか。人間は俗物で五欲の男、煩悩の男、これを自分で克服する意思もないから、人に害を与えない範囲で自分のわがままを通して生きていく。この世の中は劇場、その上で芝居をやっているようなものだと割り切れば安心して生きて行けるという。なるほどだと思う。この気構えだと私もあと10年ぐらいは生きて行けそうだ。

『「活きて老いに至る」とは佳し青あらし』兜太