銀座一丁目新聞

安全地帯(570)

信濃 太郎

権現山物語
多摩森林科学園の桜見物

東京在住の同期生は4月に多摩森林科学園(東京都八王子市廿里町1833-81)の桜見物をする。発案者は元林野庁長官秋山智英君(歩兵・15中隊1区隊)である。世話役は植竹誉志雄君(船舶・16中隊3区隊)であった。今は花見をやっていないがみんなが元気なころは4、50人も集まった。参加した都度、記録しておいたのでいくつかを紹介する。

雨の日、中央線高尾駅近くにある多摩森林科学園に友人たちと櫻見物にでかけた(平成12年4月)。ここの広さは日比谷公園の約3・5倍の57ヘクタールもあり、標高は183メートルから287メートル。5月下旬までサクラを見ることができる。サクラの木は6000本、品種は200を数える。あつまったのは35人。いつも参加する橋本閑朗君の姿がみえなかったのが淋しかった(1月28日、死去)。

「白妙の/雨に磨かれ/花白し」
「雨有情/ありし友なく/櫻散る」

面白い名の品種が少なくない。飴玉、雨宿、帆立など・・・太白(たいはく)は一時絶滅したのを櫻愛好家のイギリス人の庭園に咲いていたのを苗つぎして再生させたサトサクラである。白妙は見ごろで咲き誇っていた。雨にぬれて一段と花の色が鮮やかであった。

「花より/団子やありて/帰雁(かえるかり)」貞徳

「江戸俳句夜話」の著者復本一郎さんは「花咲き乱れる日本が一番美しいこの春に雁が北へ帰っていくというのは北の国においしい食べ物(団子)があるにちがいないと句作して笑いを示す」と解説する。

さくらを見終えて私たちも「団子」を求めて近くの茶屋に繰り込んだ。酔うほどに歌が出た。歩兵の歌、航空百日祭の歌、砲兵の歌…戦車兵の歌を荒井正之助君が一人で歌った。本来なら戦車に進んだ橋本君もいるはずなのだが、1月28日、くも膜下出血でかえらぬ人となった。数年前に奥さんをなくされ一人暮しであった。私たちの区隊幹事として何くれと面倒をみてくれた。戦後、歌舞伎座の支配人を務め同期生たちをよく歌舞伎座に案内した。まことに温厚な紳士であった。

平成19年4月7日の参加者は18名(女性1人).昨年は26名(女性4名)であったのに今年は8名も参加者が少ない。多い年は40名を越えた。年毎に友の姿が見えないのは淋しい限りである。年齢も80歳を超えればやむをえないのかとも思う。

秋山智英君の話では園内に昭和天皇をはじめ皇族が来園の際休まれた部屋が保存されている。一時その建物が取り壊しになりそうになったのを秋山君の奔走でとりやめになったという。その部屋をのぞくと、昭和天皇などの写真があった。いまの陛下が皇太子の時代の昭和22年4月4日、第1回愛林日植樹祭がこの地で行われ、ヒノキを植樹されておられる。昭和天皇が最後の来園されたのは昭和60年4月16日である。陛下は櫻をご覧になられ、「ここではずいぶん雑種ができるでしょうね」と述べられたという。生物学者らしい発言と関係者一同感心したという話が伝わっている。

園長の案内で夫婦坂をみんな思いのままにのぼる。紅一点の植竹与志雄君夫人京子さんと歩く。寒かった昨年に比べて今年は「ソメイヨシノ」が満開。話はおのずと俳句になる。京子さんの「男恋ふ迫り出る花一枝」の句がなかなか出てこなくてもたもたしていると、彼女は「山桜百歩のぼればわれ消えむ」の句をあげる。10年程前になくなった長男を偲んだ作品。句集「歩行」によればこの句は平成11年の作である。独立した3人の子供に7人のお孫さんがいるという。純白の「白妙」に会う。亡くなった橋本閑朗君を思い出す。彼が死んだ年の観桜会は雨であった。いつのまにか田中長君と二人になる。昨年秋、出した陸士予科23中隊1区隊史「留魂録」での編集で苦労した仲である。よしなしごとをしゃべりながら二次会場に向う。二人は入り口で櫻の絵ハガキ(10枚・500円)をそれぞれ買う。全国各地からの桜約250種類、1700本がある「サクラ保存林」である。珍しい名前の桜がいっぱいある。数年前に購入した「サクラ絵ハガキ」の一枚「思川櫻」を中年の女性に送ったら感謝されたのでまた買った。二次会で塩田章君にサクラ絵ハガキの効用を説いたら「すばらしい」と私の顔を覗き込んだ。田村庄次君が10月10日、埼玉で開かれる全国大会でコーラスグループ「GO-Qブラザーズ」が「千の風になって」を歌うという。いま特訓を重ねているとか。年をとっても難曲に挑む姿勢がいい。鯨井優直君が第一勧銀の北九州支店長であったのを始めて知った。私が毎日新聞の西部本社に行くのといれ違いに東京へ転勤した為すれ違いになった。それでも人情の厚い小倉の話で花が咲く。18人でも花の輪は話の輪となり生きる力となるのを実感した。

平成20年4月11日の参加者16人(夫人一人)であった。年々少なくなる。今年は平日(金曜日)とあって桜見物客はすくなく、列をなすようなことはなくあるきやすかった。例年の如く入口で桜の絵ハガキを10枚、500円で買う。「イチハラトラノオ」「ケンロクエンキクザクラ」など知らない桜の名前があった。今年はソメイヨシノが目立った。「みはた会」で知り合った伊室一義君から頂いた「その生涯を桜にささげた男」(桜博士の笹部新太郎)によると、江戸末期に江戸染井村の植木屋がオオシマザクラとエドヒガンザクラを交配させてつくりだしたもの。気品に乏しく花が散った後萼(がく)が垂れ下がる様が美しくないと心ある人に嫌われた。これが日本の桜の90%を占めて日本列島をおうようになったのは、根付きがよく病虫害にも強く管理しやすいのと政府と学会がソメイヨシノを普及させたからである。このため各地のすぐれたヤマザクラが切り倒された。これでは日本の良い桜はなくなってしまうと立ち上がったのが笹部新太郎さんであったという。この森林科学園に3本植えられてある八重咲きの新種「笹部桜」は気をつけてみたが見当たらなかった。

昨年と同じく田中長君と桜を愛でながら雑談していると、田中君が東京幼年学校の3年生の時、1年生だった伊室一義君らがいた訓育班の指導生徒で、良く伊室君を知っているという。今でも田中君を囲んでの会が開かれているそうだ。まことに縁は異なものである。

宴会場は高尾山口の栄茶屋。昨年から椅子になった。ウーロン茶は私と秋山智英君、食事のそばを早く頼んだのもこの二人であった。80歳を過ぎてもよく飲むのには感心する。誰が「開がいないのがさびしいな」(平成20年の2月、死去)と独り言をいう。そういえば開君は酒をこよなく愛した。西村博君が開君、世話役の植竹与志夫君、自分と3人の奥さんが実践女子大で同級生であったと話をする。いつも姿を見せる俳人の植竹夫人京子さんがいないのはちょっぴりさびしい。

隣にいた鈴木洋一君と憲法、年金、チベット問題など雑談を交わうち私は塩田純の「日本憲法の誕生」を、鈴木君は外国からネットで送られてきた「チベット騒動の虐殺遺体の写真」を送る約束をそれぞれする。12日に本を送ると、彼からメールで「チベット大虐殺被害者遺体写真集」が送られてきた。写真は20枚。銃の弾痕が残るもの、生々しい血にまみれたもの、思わず目をそむけたくなるものばかりであった。何故か、その写真は数日後画面から消えてしまった。世界各地の聖火リレーで中国のチベット騒動に対する抗議運動が起きるのがよくわかった。ネットで新聞やテレビでは掲載できない、このような残酷な虐殺遺体の写真を世界中に流されては中国がいくら弁解しても無駄な気がする。ネットの力は世界世論をあっという間に起こす。毎年、高尾の桜は何らかの知的刺激を私に与えてくれるのは嬉しい。