銀座一丁目新聞

安全地帯(569)

信濃 太郎

権現山物語
三浦敏事中将の最後(4)

三浦敏事中将は新京第2独立守備隊司令官を最後に軍役を退かれた(昭和14年7月31日・8月30日予備役編入)。その年の12月、満州国赤十字社理事長として新京に赴任する。此処で敗戦を迎える。新京に進駐してきた中共軍に斉藤弥平太満州拓殖公社総裁(陸士19期・陸軍中将・昭和28年9月28日死去・消息不明)、岡田信満州興業銀行総裁(昭和21年8月15日処刑)とともに抑留される。チャムスに拘禁中、同じく囚われていた満州国皇弟溥傑夫人浩子さんから相談を受けた。彼女が中共軍将校の処長から「看護婦になれ」と勧められて困っているというのである。三浦中将ら高官は「断りなさい」とアドバイスしたという(毎日新聞東亜部デスク上妻斉記者の手記)。三浦中将のその後の消息は不明であるが他の高官と同じく処刑されたものとみられる。非業の最後というほかない。

終戦時、中共軍あるいは八路軍は満州各地で日本人首脳者などを検挙“民衆裁判”にかけて多数を処刑した。岩川隆著「孤島の土になるとも」(講談社刊)によると、黒河黒河街・敦化街・安東市・本渓市・鉄嶺市・遼陽市・通化市などで合計1755名を処刑している。この数字は推測ではなく目撃や証言によるものだという。

三浦中将の軍歴を見ると昭和11年3月奉天特務機関長(少将)になっている(昭和12年7月21日まで)。前任者は土肥原賢二中将(陸士16期・のち大将。昭和23年12月東京裁判で法務死)である。当時の新聞によると、3月27日大連で引き継ぎを行っている。そのあと忠霊塔、大連神社、民政暑、市役所、満鉄本社,満日社商工会議所、大連警察署などへ挨拶回りをしている。ヤマトホテルで大連市主催の歓迎会が開かれている。

苦労されたのは昭和12年9月22日第5師団歩兵21旅団長として指揮を執られた平型関の戦闘であろう。北支那方面軍司令官は寺内寿一大将(陸士11期)。第五師団長板垣征四郎中将(陸士16期。昭和23年12月東京裁判で法務死)であった。ここの戦闘については児島襄著「日中戦争」第4巻(文芸春秋社刊)に詳しい。中共軍の待ち合わせに会い、輜重隊と自動車隊が全滅する苦境におちいる。そのような中にあって三浦少将は部下にねだられて恩賜のタバコ与える。三浦少将はタバコを吸わなかったという。お酒も宴会以外家では飲まなかったと三浦純雄君は云っている。こんなエピソードもある。高地を守備していた中隊から本部へ弾薬補給の要請の伝令がきた。たまたま居あわせた第5師団の参謀辻正信大尉(陸士36期)が一喝する。「弾薬の代わりに肉弾がある。肉弾でゆけッ」。だが三浦少将は中隊の事情を考慮して副官に「出来るだけの弾薬の補給」を指示した。わずか120発であったという。それだけ三浦支隊が苦境にあったということである。平型関の戦いはやがて主力聯隊の応援を得て勝利した。三浦将軍の心境を察すると「征馬不前人不語」であろう。

三浦純雄君から頂いた資料の中には少尉時代からの「賜餐招待状」が11枚コピーされていた。私はこのような資料は見たことがなかった。戦前、天皇陛下は時折、機会をみて晩さん会を開かれた。戦後、自衛隊は地震などの災害時に出動、大変苦労をするのに東日本大震災の際、統合指揮官の君塚栄治東北方面総監(防大20期・陸上幕僚長)が陛下に招かれて昼食をともにされただけである。これとて新聞記事にはならなかった。自衛隊にとってまだまだ不幸な時代が続きそうである。「大いなる精神は静かに忍耐する」ほかあるまい。