銀座一丁目新聞

安全地帯(568)

信濃 太郎

権現山物語
三浦敏事大佐大阪37連隊長となる(3)

三浦敏事大佐は昭和8年8月1日大阪歩兵37聯隊の連隊長になる。時に46歳であった。37聯隊は日露戦争では第4師団の主力として各地を転戦、明治38年3月10日の奉天城攻略戦では奉天城落城の突破口を開いた勇武の部隊である。大東亜戦争では第2次バターン半島攻略戦では歩兵8連隊とともに奮戦した。

私は昭和20年2月19日から1ヶ月、中部4部隊補充隊(岐阜68連隊)へ同期生42名とともに隊付きした。昭和8年当時と敗戦の色濃い昭和20年2月の連隊の雰囲気は違うと思うが私と同じ機関銃中隊に配属された山川充夫君(14中隊2区隊)が当時の連隊の模様を書き残している。

『38歳の年配兵は「年を取って軍隊に入ると、どうしても妻子の事を思うようになる。子供が11歳にもなり父母も老いてゆくので、果ては父母の死の際、子供の将来の事も心配になり気分が暗くなることあり。年寄ると一家の戸主として財産の事もつい考え出す」と述べ、同班の初年兵に対しては「初年兵当時は随分張り切ってやったが、今の初年兵があまりにも軟弱なるに憤慨する裳強いて叱責する気も生じない」とあきらめている。一方、21歳の一初年兵は「多忙也。入浴は温を執るのみにして洗う暇なし。洗面は入隊後一回実施せしのみ。楽しみは寝ることのみ。古兵さんはあまり恐ろしくない』

なお部隊の平均体重は54キログラム、患者は部隊全員2500名中一日平均約52名と書いている(59期生史「望台」より)。 三浦連隊長について当時連隊旗手を務めた陸士44期の井貫浩さんが「大阪歩兵第37聯隊史」(昭和51年刊行)に一文を寄せている。それによると、三浦連隊長は中肉中背でおっとりした感じの物腰で、よく物事を考えて行動する重厚で熟慮型の連隊長でした。言葉使いも低温でごく物静かな話し方で、しかもなかなか慈愛深い人格者の記憶が残っているという。F機関で有名な藤原岩市さん(陸士43)が当時中尉として連隊にいて三浦連隊長が目をかけていた。実らなかったが藤原中尉に縁談を持ちこんだこともある。さらに藤原中尉が其の後、天津駐屯から帰還の折りは広島第5師団参謀であったが出迎えご馳走までしている。いつまでも昔の部下を忘れない部下思いの三浦連隊長であった。

三浦純雄君は井貫少尉から水泳を習たり遊び相手になったりしてもらったという。連隊長時代、元旦と2日には将校団30数名が前後に分れて我が家に押しかけてきて大宴会になった。三浦君ら子供は長靴と軍帽の下足番であった。戦後井貫少尉が「どうしているかな」と思い続けているそうだ。私の手元にある「会員名簿」(偕行誌読者の部・昭和51年11月)には「井貫浩さん」のアドレスは千葉市春日になっている。

歩兵連隊に欠かせない「歩兵の歌」について触れておく。作詩は陸士25期の加藤明勝氏。明治44年、当時市ヶ谷に会った陸軍中央幼年学校10期生(のちの陸軍士官学校予科)の卒業百日前の"百日祭"の為に作られた。曲は一高寮歌「ウラルの彼方」であった。

一番「万朶の桜か 襟の色 花は隅田に嵐吹く 大和男子と 生まれなば 散兵線の 花と散れ」

59期生の歩兵科の士官候補生529名が神奈川県座間にあった陸軍士官学校に入校したのは昭和19年10月14日であった。予科が「振武台」。本科は「相武台」である。今でも小田急線には「相武台前駅」の名が残る。

二番「尺余の銃は 武器ならず 寸よの剣 何かせん 知らずやここに 二千年 鍛え鍛えし武士の魂」

一週間連続して夜間演習があった。匍匐前進と挺身斬り込みである。南方戦線の戦訓を取り入れての実戦訓練である。苦しかったが我慢強くなった。

十番「嗚呼勇ましの 歩兵科 会心の友よ 来れいざ ともに語らん 百日祭 酒杯に襟の 色うつし」 昭和20年10月が卒業であった。8月3日から最後の野営演習が西富士演習場で行われた。広島への原爆投下は7日夜風呂場で聞いた。挺身奇襲の終夜教練が続く。15日正午歩兵科士官候補生の3個中隊12個区隊全員が終戦の詔勅を聞く。59期生には百日祭はなかった。8月30日復員の際には八野井宏生徒隊長(陸士35期)から『死に恥をさらしても国のために尽くせ』の訓示を受ける。

「碑前祭恥をされせし余白かな」悠々