銀座一丁目新聞

追悼録(666)

川井孝輔

晴気誠少佐を偲ぶ

晴樹誠少佐(陸士46期)については、既にその名をご存じの方が多いことと思う。だが、かく云う小生は定年後東京に戻り、偕行社による靖国神社・千鳥ヶ淵墓苑・自衛隊慰霊碑の参拝行事に参加するようになって、初めて知った事を言わなければならない。最近、予科同区隊故北島正道君の奥様から、新聞の切り抜きと共に、「私の縁戚にあたる旨」のお手紙を頂戴し、まことに驚愕したのだった。

晴気誠少佐は、大正元年11月7日佐賀の生まれ。陸大を昭和15年卒業(53期)時には、恩賜の軍刀に輝く俊才であった。瀬島龍三(44期・陸大51期首席)とは大本営参謀部で机を並べた仲だった由。戦時下サイパンの作戦業務に就いていたが、終戦の8月17日、サイパン陥落の責めを己一身に科して、市ヶ谷台上で割腹自決をされた。下記は、戴いた夕刊佐賀の「語り草」からの抜粋だが、瀬島氏著「幾山河」の中に少佐のお人柄を回顧されたもので、貴重な記事と言えよう。それにしても何とも惜しい人物を亡くしたもので、只々哀悼の意を捧げるものである。

夕刊佐賀の「語り草」は、武雄市神社宮司草場哲夫氏に依るものの由。草場氏が瀬島氏の幾山河「心に残る人々」中に佐賀出身の晴気少佐を読んで、二十数年前に記事にしたものだった。偶々北島君の奥様がこの記事に感銘を受け、「夕刊佐賀」に右の投稿をされ、草場氏が記事にしたものである。因みに草場氏は幹部候補生として昭和18年に学徒出陣をされた少尉(ぽつだむ)の由。陸士・海兵の歴史を好意的に書かれて居る。

いずれも二十数年前の切り抜きで、よくも大事にお保存されたものだと感銘する。2月21日は、今年最初の陸士奇数期・幼年学校・自衛隊OBによる、靖国神社の偕行社月例参拝日に当たり参加して来た。参加者は43名。徳川宮司の挨拶を受けた後揃って本殿に進み、新年の挨拶と共に、改めて晴気少佐の御霊に弔意の誠を捧げたのである。高齢化の進む世の中を配慮して、昨年から準備中のエレベーターが完成し、足の不自由な何人かは利用のチャンスに恵まれたようだ。

続いて千鳥ヶ淵墓苑を参拝する。隔月に広報誌の「千鳥ヶ淵」を送って貰っているが、此処では改めて映像による昨年度行事実績の説明を受けた。宮崎忠夫君が亡くなって早いもので6年近くになるが、彼が居なくなった後も、自衛隊後輩のOBが、手堅く管理運営されている。

最後が防衛省内「市ヶ谷台」に在る、自衛隊の「殉職者慰霊塔」(1)参拝である。晴気少佐がこの地で自決された事実は知るものの、この地に参謀本部作戦課有志に依る、昭和40年に建てられた少佐の慰霊碑(2)を知る人は少ないと思い、カメラを持参した。「殉職者慰霊塔」の真裏に在るが、観ての通り立派な慰霊碑で、此処以上の適地はあるまい。並んで、陸軍士官学校(3)と東京陸軍幼年学校(4)跡の碑も在る。 更に慰霊塔の横に回ると、中央「赤玉」の右に「杉山元帥・吉本大将自決の跡」の碑と、左に「陸軍大臣・陸軍大将 阿南惟幾荼毘の跡」(5)の碑が建てられて在る。

終戦時にはこの他にも多くの方が自決された。杉山元帥夫人も元帥の死を確認された後に、自ら命を絶たれた。壮絶な戦後の秘話も、何時しか遠い歴史の彼方に忘れ去られるであろうが、我々はそれらの方々のご冥福を、命ある限りお祈りしなければならない。