銀座一丁目新聞

花ある風景(662)

相模 太郎

源頼朝の艶聞

頼朝は、京都で生まれ、平治の乱(1159)で捕えられるまで貴族的生活の中で育てられた。その時代の貴族は正妻のほかの女性を持つことは普通であり、それが甲斐性だったのかも知れない。頼朝の父義朝なども系図によれば10数人の子どもがいる。義朝のような歴戦、転戦の武将は各地の女性に子を産ませている。その地に勢力を置く手段だったかも知れない。長男義平(母は三浦氏)、頼朝(正妻)(熱田神宮の大宮司家の三女)、範頼(遠江国池田の遊女の子)、義経(常盤御前)などみな腹違いである。しかし、嫡男頼朝の場合、正式の源氏系図には正室政子に長女大姫(早世)、長男頼家、次女乙姫(早世)、次男実朝の4人の子のみが載っているので艶聞には謎が多い。

先ず、結婚前の伊豆に配流中のこと、伊東祐親の娘八重姫。子供までできたが、京都大番役から帰って来た父は流人の子に対する平家の重圧を怖れ、即座に殺してしまう。悲嘆のあまり彼女は入水してしまった。しかし、伊東と配流地韮山の蛭が小島との距離は片道、伊豆スカイライン亀石峠標高450mあたりを越え約20km、昔の人はたいしたものだ。淋しかった流人頼朝の実らぬ恋だった。今でも頼朝がかよったと言われる伊豆韮山、大仁CC附近の山道には伝説が多く残る。頼朝は生涯この愛怨を忘れず天下をとった後、伊東祐親は捕えられたが、後に放免するも自害してしまった。また、頼朝の文書に「八」の字の入ったものが多いのは愛惜の念か。

これからの話は平家より流人の見張り役を仰せつかっていた北条時政の娘政子と熱烈な恋の末、手に手を取って天下をとった頼朝の行状である。まず出て来るのは吾妻鏡に載っているので実話に近い悲喜劇である。まず、政子が長子頼家懐妊中のこと、頼朝の腹違いの兄義平(平治の乱で平清盛側に捕えられ斬首)の未亡人(新田義重の娘)に目をつけた。盛んに彼女に艶書(ラブレター)を送るもそれが父、義重に露見する。新田氏は、源氏同族の名家といってもいまは家来、政子の恨みを買うわけにはいかず、急遽、帥(そち)六郎に嫁がせる。見事頼朝がふられた。そして「義重、頼朝の勘気を蒙る」と寿永元年(1182)7月14日に載っている。ちなみに頼朝が天下をとったのち甲斐源氏の一族である安田義定の長男義資が、あるお寺の供養に際、女官に艶書を送ったことで、斬首してさらし首にしたという。権力闘争とはいえ頼朝の惨忍な一面が見える。

それよりわずかひと月前6月1日には妾女亀の前(良橋太郎入道の息女)を船で通うに便利と逗子の小坪から近く飯島の伏見広綱宅に住まわせていた。彼女は「顔かたちの濃やかなるのみにあらず、心ばせ柔和なり」。まさに気性の激しい正妻政子と正反対。「去年のころよりご密通、日を追いて御寵甚だし」と。政子は10月17日何も知らずに頼家を生んで御所へ戻った。ところが、11月10日父時政の後妻、性悪女?の牧の方が政子にこのことを告げるから大騒動となる。怒り狂った政子は牧宗親(北条の同族)に命じ広綱宅をぶち壊させたのだ。驚いた広綱は大多和義久の家に彼女を連れて避難する。12日、今度は頼朝が怒って家を壊した宗親を呼び付け、髻(もとどり)を切ってしまう。宗親は泣いて逃亡し時政に報告する。しかし、さすが大物、頼朝は「今夜止宿したまふ」と。そして14日に帰る。舅(しゅうと)の時政は憤然と伊豆へ帰ってしまう。頼みの綱、政子の弟義時だけは鎌倉に残ってくれて助かった。そして、12月16日広綱は遠江の国へ配流される。家来こそいい面の皮だ。その後の記録はないがご寵愛のことは読者にお任せする。

次ぎの一件、さすが頼朝と敬服?するのは大進局のご寵愛である。木曽義仲討伐、平家打倒、元暦2年(1185)3月24日壇ノ浦の合戦を最後に世は源氏政権に変わった。頼朝も政務多端ではあったが、文治2年(1186)2月26日に兼ねて密通の伊達時長の娘、ご寵愛の大進局がひそかに産所の長門景遠、浜の屋敷で若君誕生、貞暁と名付けたが、お祝い事なしと。この件は政子も分かっていたようだ。大進局を執拗に迫る政子を怖れ、乳母の成り手がなく結局、景遠の息子景国の深沢の里へ預けられた。建久2年(1191)1月23日に頼朝は伊勢の国の某所を局の食い扶持として与えている。建久3年(1192)7才になった若君を景国が連れて京都へ行き、頼朝の姉婿一条能保に預けられることとなった。6月18日由比ヶ浜の常陸平四郎宅を出発する前夜、頼朝がひそかに訪れ形見の御剣を与えたと親子の心情が吾妻鏡に載っている。ほのかな灯のなか父子の別れをしたのだった。貞暁は18才で仁和寺へ入り出家、能寛と名乗る。後に高野山に入り鎌倉法師と名乗った。政子の追求がゆるかったのは男子であり世継ぎの政治的判断があったのかも知れない。史実にある彼は高野山で46才の生涯を終えた。

頼朝が流人として伊豆の蛭が小島にいた時、はるばる埼玉県の比企郡の比企一族、頼朝の乳母比企の尼が面倒をみていたことは有名であるが、頼朝の旗揚げ以来の重臣安達盛長の妻で、景盛の生母にあたる。それが「保暦間記」に「景盛入道は、右大将頼朝の子成りければ」とあり、これがいまでも論争になっているが、しかし、景盛は安達の跡をついでいる。文治2年(1186)6月ごろ頼朝が、体調をこわした盛長の妻をひそかにわざわざ見舞いに行っているのが怪しいのは下司の勘繰りか。

このほか、薩摩島津氏は、比企の尼の妹に当たる丹後局が京都の公家につかえていた惟宗広言と結婚し忠久を生む。流人時代に受けた比企の尼の恩義に報いるため頼朝はこれを厚遇したため、丹後の局も艶聞の対象になって生んだ子が頼朝のご落胤として論争がある。今でも鎌倉の頼朝の墓には島津重豪のおさめた島津氏の丸に十字の紋所の石がある。ちなみに横浜市戸塚区上矢部町に丹後山神明社という小さなやしろがあるという情報が吾妻鏡の学友の太田悦子さんからあり、調べたら当社の境内で出産したとの言い伝えがあるとのことだった。島津氏とともに九州の大名で元寇に活躍した大友氏(相模出身の武士、頼朝が九州へ移封)もご落胤説があり、それが、元弘3年(1333)5月25日、少弐・島津氏と呼応して頼朝から北条氏が作った鎌倉幕府の九州出張所鎮西探題を襲撃し北条英時以下の御家人を自刃、滅亡させ建武の中興(後醍醐天皇、楠正成側)に一役買ったのは運命の皮肉であった。

最後に登場するのは、現在、鎌倉長谷の江ノ電がトンネルへ入るところにある御霊神社(鎌倉権五郎神社)に残る「面掛け行列」である。いつからか、毎年9月18日頼朝が非人(最下位の浮浪者)の女をいたずらして妊娠させた伝説の故事にならっておなかの大きい女性に扮した男性がいろいろなお面をかぶった人、烏帽子をかぶった稚児などを率いてお練りする。お面は非人の正体を隠したとの言い伝えからだそうで、その日は、珍道中を見ようと大勢の見物人でにぎわう。

建久10年(1199)1月13日頼朝は死んだ。53才であった。当時の京の公家の日記などが参考になるが、その死因は肝心の吾妻鏡がそのころ3年間分欠落しているのでよく判っていない。英雄の死を推論するのも面白い。

(参考文献)全訳吾妻鏡 貴志正造訳注 新人物往来社
      吾妻鏡の謎 奥富敬之著 吉川弘文館
      日本家系・系図大事典 奥富敬之著 東京堂出版
      博多歴史散歩 白石一郎 創元社
      日本史年表 歴史学研究会