銀座一丁目新聞

追悼録(665)

柳路夫

斉藤史の英訳の歌を詠む。

友人から「斉藤史歌集記憶の茂み―選歌・英訳…ジェイムズ・カーカップ、玉城周」(三輪書店・2002年1月25日1版1刷発行)が送られてきた。2月20日号の英訳の歌に関する「茶説」を読んで「もっと勉強せよ」の励ましと受け取った。この年になってなお勉強を勧める友達がいるのはうれしい。

斉藤史もその父斎藤瀏少将(陸士12期)も良く知っている。斎藤少将は2・26事件の首謀者の一人栗原康秀中尉(陸士41期)を我が子のようにかわいがっていた。事件決行を打ち明けられて軍資金を知人に頼み融通した。このため反乱幇助罪に問われ、禁固5年の判決を受けた。将官で刑を受けたのは斎藤少将だけであった。史もまた栗原中尉、坂井直中尉(陸士44期)とは幼馴染であった。栗原中尉、坂井中尉は死刑の判決を受け、昭和11年7月12日処刑された。

斎藤少将は、佐佐木信綱主宰の歌誌「心の花」所属の歌人でもあった。史の作品には2・26事件が色濃く残されている。

「WITHIN THIS FOREST
IS THERE NOT A TREE THAT BEARS
THE MARK OF A BULLET?
IN THICKETS OF MEMORY
UNDERGROWTH KEEPS DARKENING」
(この森に弾痕のある樹あらずや記憶の茂み暗みつつあり)

「A BULLET RIGHT THROUGH
THE MIDDLE OF THE FOREHEAD-
THAT IMAGE BEGINS
HAUNTING EVERY MOVE I MAKE―
ALL THE WEIRDSUMMER GRASSES
(額の真中に弾丸をうけたるおもかげの立居に憑きて夏のおどろや)

「LETTING THEM TAKE AIM
AT THE EXACT CENTRE OF
HIS FOREHEAD, HE CRIED,
“LONG LIVE HIS IMPERIAL
MAJESTY THE EMPEROR!”」
(天皇陛下万歳と言ひしかるのちおのが額を正に狙はしむ)

「ONCE, AT THE HEIGHT OF
SUMMER, AND UNDER COVER
OF THE RATTLE OF
MACHINE-GUN FIRE PRACTICE
PEOPLE WERE EXECUTED
(演習の機関銃音にまぎれしめ人を射ちたる真夏がありき)

2・26事件で死刑の判決を受けたものは15人、銃殺による処刑は昭和11年7月12日(日曜日)。場所は東京・渋谷区宇田川町代々木練兵場に隣接する陸軍衛戍刑務所敷地である。早朝から演習部隊の軽機関銃の空包を撃ち続けた。飛行機2機も低空を飛ぶ。刑場には5つの壕が煉瓦塀に向かって直角に掘られ刑架が十字に組まれていた。そこに正坐した被告人たちは眉間を10メートル離れた銃架に固定された38歩兵銃で撃たれた。処刑開始直前、香田清貞中尉(陸士37期)の音頭で天皇陛下万歳、大日本帝国万歳を叫んだという。時に史は27歳であった。

前記の4作品の背景を知れば英訳もより深く味わえる。
「THE END OF IT ALL――
SWEPT AWAY SCREAMING MUDDY
WATERS MUDDY WATERS―
WILL IT BE DEEP IN MUD OR
DEEP IN DAWN―HOW SHOULD I KNOW―」
(濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ)

革新将校が“昭和維新の春の空"と詠っだがその行き先は志と違って空しい敗戦であった。
「AFTER SENTENCING ,
SEEING MYFATHER BECOME
RATHER QUIETER-
DAY AND NⅠGHT―Ⅰ CANNOT HELP
FEELING SUCH SADNESS FOR HiM
(刑定まりむしろしづけきあけくれの父をかなしといふほかはなく)

「AT LAST MY FATHER
HAD TO BE MADE PRISONER
TO MEET HIM, MANY
COMPLICATED PROCEDURES
HAD TO BE UNDERTAKEN」
(囚人と遂になりたるわが父か逢ふにむつかしき手続きいくつ)

軍法会議の求刑は禁固15年であった。斎藤少将は判決が求刑通りであれば自決を覚悟していた。ところが裁判長の山室宗武中将(陸士14期)は「被告は陸軍少将である。軍人精神において疑われては快くあるまい。自重考慮を臨む」として判決は禁固5年という軽いものであった。多摩刑務所に収監される。2年後に仮出所する。なお斉藤少将は昭和28年7月5日、長野市の史の家で死去。享年74歳であった。

「MY FRIEND WHO PURSUED
HIS OWN WAY ,UNSPARINGLY
SELF SACIFICING,
VISITED ME IN A DREAM-
TRYING TO TELL ME SOMETHING
(5 YEARS AFTER THE FEBRUARY 26#INCIDENT)」
(ひとすぢに捨身(しゃしん)の道をいゆきたる友夢に来て物言ひにけり)
(2月26日の事件より五年の月日たちぬ)

「GREEN GRASSES ―FRESH GREEN
BLOOD GUSHING OUT,MINGLING WITH
ALL THE YOUNG MEN WHO
ARE MOWING THE MEADOWS AND
RELEASING INTENSE FRAGRANCE」
(青草は青き血流し刈原の若男らとともに香れり)

斉藤史は蹶起将校にはあくまでも優しい。
昭和29年1月、歌会始を陪聴する。昭和天皇に「お父上は瀏さん、でしたね」と語りかけられる。2・26事件から18年がたつ。

1997年(平成9年)1月、宮中歌会始の召人となる。時に88歳。 お題は「姿」

史の歌。「野の中にすがたゆたけき一樹あり風も月日も枝に抱きて」

私は父瀏を詠ったものだと思う。

「IN THIS FINE WEATHER
MAKING ME FEEL I DON‘T CARE
HOW MANY MORE YEARS
THE CHERRIES ARE BLOSSOMINGU」
(九十歳の先は幾歳でもいいような天気の中花が咲くなり)

こう歌った斉藤史は平成14年7月14日93歳でなくなった。2日前が幼馴染の栗原中尉、坂井中尉らの67回忌であった。

斉藤史は生涯凛として生きた。
「老いてなほ艶とよぶべきものありや 花は始めも終わりもよろし」。