銀座一丁目新聞

安全地帯(566)

信濃 太郎

権現山物語
陸士19期三浦敏事中将(1)

友人三浦純雄君(陸軍経理学校8期)から父親の三浦敏事中将の資料をいただいた。その資料にもとづき他の文献も参考にして書く。三浦中将は陸士19期生である.この期には今村均、田中静壱、河辺正造、喜多誠一(昭和22年8月7日シベリア没)、塚田攻各大将。本間雅晴中将など昭和史に出てくる話題の将軍が少なくない。

19期生は明治38年12月、1183名が半年の隊付きを終えて市ヶ谷の陸士に入校する。この頃は陸士の試験に合格するとまず一兵卒として隊付きをした。その目的は実際に兵隊と起居を共にしてその実情を知ることである。私たち59期生の時は陸軍予科士官学校で1年6ヶ月の教育を受け卒業、本科に入校して間もなく各地の連隊に1ヶ月の隊付をした。位は伍長であった。58期は予科卒業前の2ヶ月間隊付き。57期は予科を卒業して3ヶ月隊付きをした。戦況が厳しくなるにしたがって隊付きの期間が次第に短くなっている。

三浦中将の隊付きは金沢歩兵第7連隊であった(7月15日に入隊)。第7連隊は日露戦争に出征、明治37年8月21日、一戸旅団(旅団長・一戸兵衛少将)が占領した一戸保塁が奪えかえされそうになった際、この攻撃の先頭に立ち奮戦、連隊長大内守静大佐(草創期・明治36年5月1日歩兵7連隊長)が戦死,聯隊3千人中生き残ったのはわずか50名に過ぎなかった。一時、軍旗がなくなった時期があったが戦死者の下から血に染まって発見されたというエピソードを残す。

三浦中将は明治40年5月30日卒業する(卒業生1068名)。歩兵中尉の時、陸軍大学校へ入校する.陸大29期生である。陸士19期の陸大卒業生は62名。恩賜は4名を数える。今村均(陸大7期・首席・戦犯釈放)、田中静壱(陸大28期。昭和20年8月28日自決・58歳)河辺正三(陸大7期)本間雅晴(陸大27期・法務死マニラ・59歳)らである。陸大の教育期間は3年。戦争中は短くなった。昭和13年度以降2・5年、2年、1・5年、1年となり昭和20年卒業生は半年間の学修に止まった。

陸大の試験は初審と再審がある。初審は各司令部の所在地で受ける。戦術その他の筆記試験がある。それに合格した者百名が選ばれて東京・青山の陸大に召集され、再審で50名にふるい落とされる。「大本営参謀の状戦記」(文春文庫)の著者堀栄吉(陸士46期。陸大56期)によれば、初審に合格して再審の勉強中に父丈夫(陸士13期・中将・第一師団長。陸軍航空の草分け)に薦められて土肥原賢二中将(陸士16期・陸大24期・堀丈夫師団長の後任の第一師団長・のち大将)に会いに行った。土肥原将軍は「相手に勝には何をするのが一番大事かを考えるのが戦術だ」として次のような話をしたという。「枝葉末節にとらわれないで本質を見ることだ。文字や形の奥には本当の哲理の様なものがある。表層の文字や形を覚えないで、その奥にある深層の本質を見ることだ。世の中には似たようなものがあるがみんなどこか違うものだ。形だけ見ているとこれがみんな同じように見えてしまう。それだけ覚えていたら大丈夫。物を考える力が出来る」。噛めば噛むほど味が出る言葉である。

現実は違った。日本の戦術は作戦第一主義で兵站を軽視した。また情報軽視もひどかった。インパール作戦(昭和19年3月作戦開始)はその典型的な例である。兵站を無視、糧食・弾薬の補給を欠いて作戦に参加した10万の10万人のうち3万人が戦死、2万人が負傷した。ガダルカナル作戦(昭和17年は8月)は情報軽視による敵情判断の誤りと兵站軽視の輸送、補給難が重なり飛行場奪回作戦は失敗その年の暮れ奪回作戦を中止翌年2月1日から7日までに陸軍9800人、海軍830人の撤収を完了した。この作戦により日本軍の損害は陸軍1万3千人、海軍3800人に上った。ガダルカナル島をめぐる決戦に備えてラバウルに派遣されたのが第八方面分司令官今村均大将であった。ラバウルでは自戦自活して10万の将兵は飢えることなく終戦を迎えた。

陸大を卒業した三浦中将は原隊の金沢歩兵7連隊の中隊長を拝命、兵ととともに8ヶ月汗を流した後。参謀本部勤務となった。波乱の人生が待ち受けていた。