銀座一丁目新聞

花ある風景(657)

湘南 次郎

進む老化は順調に

平成30年1月14日めでたく?92才の誕生日を迎えることができた。まず、まわりの方々のおかげと感謝、本年もよろしく。遺憾ながら90才を過ぎるころから、財力はさておき、急速に体力、気力、記憶力がガタンと衰えだしたのを自覚する。歳月人を待たず。あれよ、あれよと一日が短くなり、残した身辺整理をしなければと。ま、なんとかなるさとだんだん、不精になってきてやる気がしない。結局、日向ぼっこで新聞を読みながらコクリコクリとお迎えを待つ。

暮れから持病の腰痛がひどくなる。医者は脊椎間狭窄症で、内心、もうあの世へのみやげと治してはくれない。レントゲンを見て背骨のふしの隙間がなくなり一本棒になってしまっている。おまけに、超高齢なんだから治せる訳はないと変な納得をする。湿布、痛み止め、安定剤の処方で終わり。朝が特にきつい。伸ばせば伸びたっきり、曲げれば曲げたっきりだ。おまけに急に曲げるとコキンコキンと音がする。「新年おめでとう」(それにつけても腰の痛さよ)、「本年もよろしく」(それにつけても腰の痛さよ)。本誌12月10日号所載の主幹牧氏の名句「木枯らしや 吾も旅人 三輪山  悠々」(それにつけても腰の痛さよ)と自分で変な接尾語をつけて感心している。ちなみに老生、実際、その前月偶然にも腰痛の中、大和三輪山を参拝していたのだった。治癒はどっかの約束「不可逆的」に無理らしい。

医者は散歩を勧めるので2000歩をめどにボツボツやっているが、今は杖をついてビッコをひいて歩いている。先日洋服屋でズボンをあつらえたら左足が右足より2センチ短いそうで愕然とする。良い言葉ではないがつまりチンバだ。10年ほど前より左足の膝が痛くて曲がってきたらしい。しかし道路はだいたい真ん中が高く両側に傾斜しているので足の差はそれを利用して端を歩くといいのを悲しくも発見した。

耳も急速に遠くなって来た。適当に相づちをうっているが、ときどきトンチンカンな返事をして相手が変な顔をする。家では妻が大声でどなることもしばしばだ。補聴器をいつも着けていてくれと言われるが、つけっぱなしでは電池が2、3日でなくなってしまうので小遣いも馬鹿にならない。うっとうしいし、まあ必要な時に着けることにしてかんべんしてもらっている。

今年は、新年になって年賀状がだいぶ減った。喪中の知らせ、来なくなったものが急速にふえ、年賀はがきの抽選の楽しみが少なくなった、手帳もうすくなったが、脳天の白髪もうすくなった。それにつけてもどうして爪、鼻毛、眉毛はよく延びるのか。陸軍士官学校の同期生名簿に毎月来る会報掲載死亡者のしるしをつけているが、1ページ22名のうち全滅のページ、1、2名の生存者のページが多くなった。

オンナは強い、老生のような酒、たばこ、碁、将棋、麻雀などやらぬものはこの歳になるとあまり交流もなくなり、ゴルフなどアウトドアのスポーツも無理になったので、今まで人一倍友人がいて外出も多かったのが家に引きこもることになるが、妻は、いくつになっても近所の奥様によく声をかけお友達が増える。最近まで老生とゴルフもやっていたが今はヨガ、体操、コーラス、写経、その他の催し物などによく出かける。その合間に定期的に病院に通う。したがって老生は「留守番のじいや」となるのである。「留守番のじいや」とは言い得て妙。じつは拙宅の奥の鎌倉山に山荘風の豪邸を構えるB氏と、ふとしたご縁でお友達になり、お宅へ時々お伺いし、ご主人から聞いた言葉である。奥様は声楽をされ、発展家でお友達も多く、お出かけもあるのでご主人が留守番なのだそうだ。老生宅の近所の男同士では、ごあいさつ程度でたいした交流はないのでまた正月明けて「じいやの仕事」が復活することになる。

年長一番の孫も37才、大学出て、就職した正月から毎年ご年始として大好物の正月用特製虎屋のようかんを「おじいちゃん、おめでとう」と持って来る。歳をとると涙もろくなり本年は思わずポロリと感涙。娘や孫一族で本年も鎌倉プリンスホテルで新年会をやったが、ポルトガルにいる孫一人を除き、ひ孫5人を含め17人の集まりだった。みな「じじ、ばば」を大事にしてくれ、感謝感激、極楽トンボ、ああ吾が人生に悔いはない。