銀座一丁目新聞

安全地帯(559)

湘南 次郎

権現山物語
有り難う!92才のお正月

戦争、終戦で一度は死ぬ運命に会うと覚悟していたが、運よくなんとか切り抜け、今まで健康で酒・たばこをのまなかったことも幸いし、2度(不明熱・黄疸)20日ばかりの入院以外、健康で生きてこられたのは多くの皆様のおかげだった。今は、ストレスもなく、ナミではあるが悠々と過ごすことができるのは、周囲に温かい人が多かったのでたいへん助かったと感謝している。

昭和20(1945)年8月末、終戦で復員、自宅へ帰郷したその日から母は、今までの心労で寝込んでしまう。心配かけて申し訳なし。幸い妹も国立の食糧学校から帰って来て母に代わって家事仕事をしてくれ助かった。父は、家から2kmぐらい離れた200坪ばかりの空き地を借り、血気にはやる小生と隣に住んでいた極右翼の大東塾にいた従弟に開墾を命じた。本人たちは敗戦で諦めていたが、当時の険呑な世相に対するあり難い親心で、何するか判らぬ我々のクーデター封じであった。空き地は身の丈より高い笹薮であって、毎日刈り取っては燃料に家まで引きずって帰る。最初はよかったが、10日ほどすると当時のなべや釜は不良品で火力の強い笹竹に穴があいてしまった。ついに現場で焼くことにしようかと相談しているところへ母校から口がかかった。校長先生など数人の恩師から明朝来いというのでうかがうと朝礼台にのせられ、校長先生から全校生徒に紹介される。臨時の「助教」として受け持ちは体育であった。まだ、教員が戦地から帰らず不足していた苦し紛れの措置であったのだろう。それでも冬、夏休暇の特別講習には、自由奔放、得意の数学・化学を教えたのでそれに興味を持ち、のちに数名、教員になった生徒もあった。戦後のブラブラは半月ほどで終わり3年半ほど教職に就き糊口をしのいだ。初任給8,000円、両親も感謝した。

50才になったころ、家を貸し、またブラブラしていたことがあった。当時常磐興産(スパリゾートハワイアンズなどの総合会社)社長になっていた陸軍士官学校(陸士)時代(老生は59期生)54期生の区隊長(クラス担任)鈴木正夫氏からオレのところへ来いと声がかかった。面倒見のいい人で昼飯をごちそうにあずかり、お誘いがあった。いわきのハワイアンセンター勤務であろうと推測され、その任にあらずとお断りした。次いで母校の理事長と恩師で先輩の校長より事務長のお誘いがあり、そちらにきめた。区隊長には申し訳なかったが、理事長ともども老生を思うお気持ちには感謝感激であった。

母校勤務のころ、毎年のPTA総会で名士の講演があり講師に理事長が苦慮するで、陸士の同期生をたのむことにした。生死を共にと誓った戦友はあり難い。NHKの名アナウンサー故八木治郎君は午前の大坂局から飛行機で駆けつけくれた。警察学校の校長故三沢由之君、入国管理局の副局長竹村照雄君など多彩で、みな快く引き受けてくれ好評であった。また、教職員の忘年会には、会食前に必ず博物館などの見学会を例としたが、上記の三沢君のお世話で警視庁や、科学捜査研究所、また、当時参議院事務総長より国会図書館長の要職にあった指宿清秀君には国会議事堂や、新設の国会図書館を見学させてもらい、あとの忘年会にビールが1ケース届けられたのには学園一同が恐縮した。一人、大事な人を忘れていた。本誌主幹牧内節男君(ペンネーム牧念人ほか)だ。本科陸士の歩兵で隣の区隊にいた戦友である。寡黙のようでさにあらず、能弁のようでさにあらず、なにを考えているのか、とにかくおとなしい人であった。それが毎日新聞で社会部長、西部代表、スポニチ社長と大活躍することになるとは。その彼にいま「銀座一丁目新聞」でお世話になっている。老生、とかく家にこもりがち、友の多くは冥土へ。老生のストレスがたまりボケか、あの世行きを助けてくれたのが本誌なのである。胸のなかのモヤモヤは文を書くに限る。下手でつまらぬことだが何万の人々に読んでもらったら光栄だ。遠くロスの義弟も愛読者で時々読後評の電話がある。

ある夏の夜、近くの駐車場で江の島の花火を見ていたときのことである。堤防をまたぎそこなってそばのコンクリートの側溝に落ち、頭部を切ったことがある。出血がひどく、暗がりのなか、花火見物の若者多数がティッシュを持って来て応急手当、電話で救急車を呼び誘導する。見事な連携プレーで事なきを得た。ちなみに救急車はクッションがよくないので乗らぬほうがよい。霊柩車は素晴らしいがただ、遺影か白木の位牌携行でなければ乗れない。最近、杖は突くようになったが、電車に乗ると若者がぱっと席を立って譲ってくださる。有りがとう。降りる時はお礼を言うことにしている。若者よ「人道いまだ地に墜ちず」だ。

当家には家内一人、二階には亭主が定年の長女夫婦がいる。恐縮だが、親孝行な娘夫婦でゴミ出し、ふろ洗い、戸外の掃除、ときどきの副食の差し入れ、寒いときはこうしろ、暑いときはああしろと、うるさいほど面倒をみてくれ、助かっている。アレがいると家の中がパット明るくなる。次女も隣町にいるので何かと気をつかってくれる。ふたりとも亭主の理解があり家庭がうまくいっているからだろう。あり難い。

とにかくわが人生、山あり谷もあり、なんとか生活に困らずやってこられたのは、雑巾ならとっくにすり切れの結婚67年、よく飽きずにヤンチャから老いさらばえるまで老生の面倒をみてくれている山の神様、愚妻に最も感謝しなければならないが、本稿にはこそばゆいので胸に秘め詳しくは遠慮する。

最後に、故人になられた多くの方々に感謝、ご冥福をお祈りします。