銀座一丁目新聞

安全地帯(558)

湘南 次郎

権現山物語
我が回想の武草会

「過去を謳歌するものは弱者なり」といわれるのを承知で卆寿(90才)を越したわれらの壮年時代の記録よりその一端を回想する。それは老生の書棚に大事にしている陸軍士官学校第59期生同期生同区隊(クラス)の親友、故中里英二(建築設計士・航空戦闘)が作製した同期生ゴルフ会の詳細な記録の遺稿にあった。

そもそも「武草会」とは同期生のゴルフ会の名称で「武士が草の上で競技する」からつけたものだ。昭和46(1971)年12月8日太平洋戦争勃発記念日を期して、若干、思考停止の故森正道(当時ゴルフ用具製作、ハンデ6・機甲)が同好の同期生に呼びかけ、彼のホ-ムコース狭山ゴルフクラブで第一回のコンペを開催した。全員元気はつらつ、気力・体力のもっとも充実していた、40才半ば、参加人員は7名であった。むろんMが優勝し、あとはさんざんな成績であったが、1.5ラウンド(そのころは当たり前)終了後、高尾山麓「うがい鳥山」において発会式で気勢をあげ、その際、森が、会則を作って来たのに驚いた。カタカナ文字ない。懐かしい?言葉ばかりだ。

会則の一端を紹介しよう。

往時の士官候補生時代を思い出す用語の続出で、いいおじさんの兵隊ゴッコだ。そしてハンデに基づき予科生徒、士官候補生から見習士官、少尉(自衛隊の三尉)より大将、元帥まで階級がある。故八重畑達夫見習士官(防水業・航空整備)は御徒町で旧軍の階級章を買って来て皆の帽子に着用させる。キャデーさんも大笑い。参議院事務総長の指宿清秀(航空通信)、NHKのアナウンサーの故八木治郎(航空通信・夫人も時々参加)も同類で二人とも上位であった。また、老生の愚妻なども従軍看護婦としてほとんどのプレーに参加した。査定は幹事会(古参上位者で作る教育総監部)がおこない、東京倶楽部、小金井カントリークラブなどの名門から米軍朝霞・相武台のゴルフ場まで100回を数えた。

お座興に、故森大将(会のハンデ2)が創作した、ゴルフ用語の一端、日本版を紹介しよう。

ゴルフ場(演習場)、コンペ(演習)、18ホール(18穴けつ)、ワンハーフ(ひと回り半)、ハンデ(免除点)、グロス(総打数)、ネット(査点)、成績発表(論功行賞)、ストローク(射撃打数)、ドラコン(加農カノン砲)、プレー(戦闘、)記録(戦闘詳報)、ホ-ルインワン(初打入穴)、ニアピン(狙撃)、申し送り(下番、上番)ボール(弾丸)、等々。

ちなみに、記録係の故中里中尉は耐熱、耐寒訓練、風雨天の際、「本日は、絶好の天候に恵まれ」と講評している。

かくてプレーする同期生、第1回の7名より次第に増え常時30名近くのプレーとなったが時移り、70才を越えさしもの元気であった健児も脱落者が増えついに狭山ゴルフで終焉を迎え、小金井の金寿司で解散式をあげたのを覚えているが、残念ながら40回以後の記録がないので20年も前のことの詳細は忘却のかなたである。老生はヤットコ大佐どまりであった。記録により思い出す珍談を紹介すると、昭和47年2月9日第2回に、今は亡き八重畑候補生は新設だった大厚木カントリークラブで泥沼にボールを取りに行き、はまりこんで見る見るうちに胸まで浸かってしまい、皆でクラブにつかませヤット救出、泥まみれ、以後プレー不能。ョートホールで先行の組にいた故鈴木哲夫見習士官(熊谷組)が後発のプレーをさせるため、グリーン横で待っていたところ、「ファーツ」昭和55(1980)年1月23日第36回狭山ゴルフクラブでのこと、池越えのシの声に顔を上げたとたん上唇にボールがあたり、口内負傷、直ちに外科医の広野恵三中将がクラブ救護室にあった獣用の針で麻酔なし応急縫合をおこなった。悪い奴がいて、もう少し狂ったら口の中へまっすぐ入って窒息だと笑うが本人はさぞ痛かったろう。名誉の被弾負傷事故であった。また会則により規定以下の成績不良者は、教育総監部が反省金を徴収したが、亡き開真候補生(新聞記者・航空戦闘)は成績極めて不良につき、取るに忍びず、武士の情け、当分研鑽努力を約し、反省金なしを命じた。ことわっておくが、本誌主幹の牧念人(牧内節男)は仕事の関係(新聞記者)か、参加していないのが残念だが、いれば少将(ハンデ7〜9)ぐらいの位であったろう。

今、卒寿を越え、幽明を異にした武草会員たちは、高度成長の日本で、身を粉にして活躍した企業の戦士ばかりであって、会員総数は50名あまりだったが出席者は、ほぼ半数以下だったのは、仕事をやりくりして無理しての参加であったからだ。苛酷な入試を突破して入校した陸軍士官学校同期生が終戦で暗転、裸一貫、故郷に帰り再起を期し、刻苦勉励して今日の日本の繁栄を築いたのであって、決してゴルフにうつつをぬかしていたのではなかったと、全滅、玉砕した戦友の名誉のために申し上げておく。