銀座一丁目新聞

追悼録(652)

柳路夫

謡曲「竹生島」の想い出

中学生時代は大連振東学舎という寄宿舎で過ごした。通学した中学校のそばにあった。舎監の太田誠さん(故人)は真面目で抱擁力のある人であった。日曜ごとに塾生たちに謡を教えた。今でも「竹生島」のはじめのくだりだけは覚えている。音痴の私はそのままにして今日まで来た。このほど知人の女性から「竹生島」の謡の本が送られてきてはじめてその内容と謡の難しさを知った。己の怠惰を今更のように恥じ入るばかりである。

「竹生島」の時代は延喜の聖代(醍醐天皇・897-930)、調べると、延喜1年には藤原道真が大宰府へ左遷。同9年には薬師堂薬師三尊像建立されている。筋は竹生島参拝の臣下か琵琶湖畔で出くわした漁翁と若い女との間で起きた物語である。出だしは「竹に生まるる鶯の。竹に生まるる鶯乃竹生島詣急がん・・・」である。此処までは記憶している。この本によると、節譜解説・「竹生島詣急がん」此句の拍子当たりは左の通り。

「ちー(8)くぶー(1)しま-(2)ァー(3)まうー(4)で・・・-(5)いそー(6)ォがー(7)-んー(8)」

「竹生島」の本は一行12字が192行もある。これを1度から8度までの音階を使って唸るのである。とうてい私のできることではない。私はやはり聞く人であり、口舌の徒である。文句にひかれる。

『世阿彌』には将軍足利義持が巫女に占ってみる場面がある。義持「婆ァ、私の顔を見よ。そして何か云え。さ」。老婆「光は闇じゃ。闇は光じゃ」。義持「なんと、もう一度云え」。老婆「光じゃじきに闇となる。闇はじきに光となる」
老婆の言葉は哲学である。将軍は老婆に劣る。

世阿彌著「風姿花伝」(野上豊一郎・西尾実校訂・岩波新書)をひも解けば「花を知らんと思はば、まず種を知るべし。花は心、種は態(わざ)なるべし。古人云はく。『心地含緒種 普雨悉皆萌 頓悟花情巳 菩提果自成』

同期生別所末一君が演ずる能舞台を友人たちと見学したことがある(第三回東京真謡会大会。平成28年6月18日・東京千駄ヶ谷・国立能楽堂)。別所君が演じたのは、独吟「鵜ノ段」。舞台に出て来た彼の姿は凛々しく、風雪に耐えた古木の感があった。「鵜籠を取出し…この身の名残惜しさを如何にせん名残惜しさを如何にせん」約4分。節に艶があって聞かせた。演じた後、別所君の話では「立ち姿は大切だ。相手がどう見ているか気をつけよと戒められている」という。彼の芸歴は40年に及ぶ。昨年冬、卒寿記念として場所は京都観世会館、素謡「関町小寺」をシテとして演じた(平成27年11月28日)。60分間、正座、見台なし。ワキ・分林能楽師が務めたという。

ところで「竹生島」の最後のくだりは「天地にむらがる大蛇の形。天地にむらがる大蛇乃形ハ竜宮に飛んでぞ入りにける」である。かすかに覚えている。
延喜の臣下は金銀珠玉をいただき天女(若い女の化身)は社殿に、龍神(漁翁)は龍宮に帰えるのである。

太田誠舎監が10代の少年に植えた種はそれぞれの心の中に火をともし、花を開いた。遅咲きの私は90過ぎて人生を楽しんでいる。感謝のほかない。