銀座一丁目新聞

花ある風景(651)

並木 徹

加藤静子さんの句集に感動する

藍書房の小島弘子さんと、渡邊ゆきえさんから加藤静子さんの句集「よもつひらさか」(2017年11月3日発行)が送られてきた。先に出した『老眼鏡』(限定300部)から8年もたつ。『老眼鏡』は素晴らしい句集であった。今回も私の好きな句がたくさんあった。よもつひらさかは現世と黄泉との境にあるという坂。漢字で黄泉平坂と書く。句集には「かたつぶりよもひらさかゆるゆると」とある。人間は80を過ぎると死を思う。作者は「ゆるゆると」と表現するがかなり深刻に考えているように見受けられる。

初めに亡くされた弟さんを偲ぶ句が24句。弟さんへの思いが強かったのであろう。

「緑陰に本読むおとうとひとりにす」(人生の最期の2週間を蓼科の山荘で過ごす)
「手を握るのみの見舞ひやはなぐもり」
「弟逝くふぼのもとへ聖五月」

弟の名前は五十四(いそし)。父親が54歳の時の子供。山本五十六大将にちなんでつけられた。ノートルダム清心学園理事長渡辺和子さんも父・錠太郎大将(2・26事件で凶弾に倒れる)が54歳の時生まれた子供であった。

「冴返る逝かれて気づくこと多し」
「無花果を煮つめてをりて逢ひたしや」
「夏の雪」(スノーインサマー)てふ馬快走す青き芝(弟の持ち馬、新潟競馬で優勝す)

弟さんは大学を出て「日刊スポーツ」の記者となり、競馬担当となる。馬が生涯の趣味となったという。私がスポニチにいた時、入社早々の記者が辞めたいと言い出した。理由を聞くと「スポニチに入ったのは競馬記者をやりたかったからだ。広告に行くならやめる」というのであった。「広告の仕事も競馬をやる上で役に立つ。1年間我慢しろ」と説得した。この記者は1年後に競馬担当となり今では「本社予想」担当として“穏健な”予想を紙面展開している。

次章「月の宴」(28句)も弟さんの思いを綴る。

「初蝶に遇ふ亡き人を想ふとき」
「亀鳴くや居るはずのなき人の声」
「黄泉よりの誰からとせむ落し文」
「亡き人の書庫はそのまま寒に入る」

加藤静子さんにヘンリー・スコット・ホーランドの詩を捧げる。「死は特別のことではないのです。私はただ隣の部屋にそっと移っただけです。私は私のまま、そしてあなたもあなたのまま。我たちたちがかってお互いのことを感じていた、そのままの関係です」

四季の句になる。春は25句。

「『信濃毎日』につつまれてふきのたう」

ふきのたうはテンプラにするとおいしい。戸隠では時々山菜料理としてご馳走になる。この村では道端によくふきのたうをみかける。

「古雛戦火も恋もみし眼」

昨今は3月にあまりお雛さまを見かけなくなった。昭和生まれの女性には悲しい思いがあるのであろう。私にしても「ひまわりの先に1945年の恋」の句がある。

「夏」(34句)。

「梅雨雲レイテに死すと刻む墓」

第16軍司令官牧野四郎中将はレイテで戦死された。私が在学中の陸軍予科士官学校の校長であった。「花も実もあり血も涙もある武人たれ」と教えられた。牧野校長は出征の際「墓はいらぬ。卒塔婆だけでよい」と言い残された。校長の息子の牧野一虎とは同じ中隊で同じ区隊であった。戦後、無医村の医者になったが「多くの部下を死なせた責任者の墓はいらない」と父親の墓を建たせなかった。建立されたのは陸士57期・58期・59期の教え子たちの募金による『遺訓碑』(昭和63年)であった。

「父の日やいまでも不思議ラムネびん」
「羅やあるかなきかのシャネルの香」
「老化です女医のひとこと炎暑かな」

私は医者嫌いである。これまで大病をしたことがない。薬は副作用があるので呑んだことがない。だから人に対する思いやりがあまりない。人には医者の言う反対の事をせよと忠告している。「老化ですいや青春夏深し」と私は詠む。

「一日を粗食で過ごす敗戦忌」

敗戦の時、作者は女学生。ショックであったと思う。私は士官候補生として富士山麓で野営演習中であった。同期生13人が靖国神社に祭られている。月一回の靖国神社参拝は欠かしたことがない。

「秋」(25句)

「寝まる前いざよひ月をもう一度」
「女優貞子献立日記茸飯」
「あのころはみんなやせてたさんま焼く」

敗戦直後は芋ばかり食べていた。而も母親が農家へ買い出しにゆき、着物を芋に替えて食わしてくれた。

「鬼やんまピカソの森に迷ひこむ」

作家澤地久枝さんはピカソを「ほしいものは遠慮せずに獲得し、彼の必要がいっさいに優先する。それがピカソの底知れない芸術活動の血であり肉であった」と評する。万事に控えめな作者でも迷うとはやはり芸術は偉大であると思う。

「蕎麦旨し紅葉美し誕生日」

信州人を両親に持つ作者に乾杯する。私の父は長野県喬木村の出身、長野には何故がひかれる。春と夏に戸隠を訪れるのは蕎麦が私を呼ぶからであろうか…

「爽やかにひとこと逢えてうれしいと」

「冬」(25句)。

「寒満月未来思ふて立ちつくす」

未来を心配するのは戦前派である。戦後生まれは平和ボケして「常在戦場」に気持ちが全くない。「常に最悪の事態を考える」心掛けもほとんどない。昨今の異常気象は私には心配でならない。核・ミサイル開発に狂奔する北朝鮮も覇権主義を唱える中国にも気掛かりである。

「咳込んで放哉の部屋おもひけり」

満州育ちの私にはエリートコースを歩みながら酒に耽溺、満州にまで職を求めた尾崎放哉には親近感を持つ。最後に死処と定めた小豆島南郷庵は八畳の間であった。小さな窓から瀬戸内海がみえた。その部屋への作者の心情は放哉そのものではないか。しかも放哉に「せきをしてもひとり」の句があるのを知っての作である。さりげなくこのような句を詠む人がいるとは驚くほかない。

「捨てきれぬ手紙また読む煤籠」

今、ここ30年間に来た手紙の整理をしている。女性から来た手紙がなかなか捨てきれずにいる。

「老いていよよ子に従わぬ師走かな」

91歳になる同期生が最近、子供の反対を押し切って大型バイクを購入した。若い時、バイクで日本一周した記録を持つ。その夢が忘れられぬらしい。「老いては子に従え」は鉄則であるといっても同期生は言うことを聞かなかった。

「ぼろ市や百円で買ふ『罪と罰』」

読み返してみると再発見がある。百円以上の値打ちがある。最近『復活』を読んでその思いがした。

「裸木となりて真実見えてきし」

年をとると、世の中の裏が分かるようになってくる。表だけでは判断しなくなる。物事は「正」「反」「合」と展開するのもわかる。ともかく「一葉落ちて天下の秋を知る」ようになる。老人を大切にしない国は滅びる。私は一応東京五輪までは生きたいと思うが「死も生も神のはからひ月冴ゆる」(加藤静子)である。