銀座一丁目新聞

花ある風景(648)

川井孝輔

龍潭寺

イヤーホーンを両耳に装着しても尚、十分では無い。結局あまりテレビを見なくなり、「おんな城主直虎」への関心も今一つだった。そのような折、今回ツアー最後の観光は、その直虎に関係ある龍潭寺だった。

龍潭寺とは、浜松市北区に在る臨済宗妙心寺派の寺院で、天平5年(733年)行基によって開かれた。本尊が虚空蔵菩薩で、当初は地蔵寺であったが、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)が元中年間(1384~1392年)に中興されたと伝えられている。戦国の時代(1560年)井伊直盛が戦死して菩提寺である此処に葬られ,直盛の法号から龍潭寺と改められた由である。

到着して案内図を見ると、相当な広さのようだ(1)。我々は図にある山門から境内に入る(2)。途中奇異なハスの花を見かけた(3)。ハスの花と云えば霜田君からは立派な写真を貰っており飾ってあるが、このように屹立したハスの花を見るのは珍しいと思ったものだ。処が9月台風18号騒ぎの折、何となくテレビを見ていると、屹立して群生しているのを見た。特に珍しくは無いのだろうか。更に進むと仁王門(4)が在る。地味な仁王様だが仁王門が在ると云うことは、結構な寺院と云えるのではなかろうか。奥に進むと広壮な本殿が(5)鎮座してあった。本殿に上がると井伊家霊殿(6)が在る。説明によると、井伊谷を本拠地としてきた井伊家は平安時代から戦国時代まで、遠江の国人領主を務めていた。鎌倉幕府に仕え、南朝方の宗良親王を迎えて北朝軍と戦っているが、室町時代この地に侵攻してきた今川軍に敗れ、その支配下に入ることになる。戦国時代の永禄3年、前記第22代井伊直盛が桶狭間で戦死、23代の直親は2年後に今川の手で殺された。

龍潭寺二世・南渓和尚はこの危機に、直盛の一人娘直虎(次郎法師)を「女性地頭」(女領主)に立て、幼い24代井伊直政の後見人とした。その後徳川、武田の侵攻を受けたが直政を三河鳳来寺に匿い、直政が15歳に成長した時浜松城で家康に出仕させる。直政は「赤備え」軍団を率いて武勲をたて、徳川軍団の筆頭に出世し、井伊家を見事に再興し江州佐和山(彦根)に移封された。因みに「赤備」とは、元々武田の強兵集団だった。天正10年、徳川軍が武田勝頼を攻め滅ぼした時、数々の武勲を立てた井伊直政に、この旧武田軍の「赤備」軍を付けたのである。天正12年、小牧・長久手の戦いでこの赤備軍が活躍して、井伊の赤鬼と恐れられたという。この功で直政は六万石に出世し、関ケ原合戦では東軍の軍監を務めて、徳川軍を勝利に導いた。その井伊家は江戸時代を通じて江戸幕府を支え、幕末にあの井伊直弼が大老として、開国・攘夷の渦巻くなか開国を決断して、日本の近代国家誕生の基礎を築いた。本殿内の御霊屋には、井伊家千年に亘る祖霊を祀ってあると記してある。この、長い井伊家暦史の一齣が、今やテレビを賑わす「おんな城主直虎」のストーリーと云う訳だ。直虎と大書した部屋もあった。尤も、実際に女直虎が存在したかどうかは、確かめる術がないとも聞くが・・・。殿内にかなりな大仏様が(10)在って、丈六の釈迦牟尼佛と記してある。遠州地方では第一の大仏で、立てば5mになるので丈六と云う由。座高は約3m、享保14年(1729)雲長作だが残念なことに、廃佛棄釈の影響でかなり悪戯されて、金箔も剥げ落ちていた。

廊下を回って裏手に行くと寺自慢の庭園が(7)(8)(9)在った。鈴虫寺の庭も小規模ながら気持ちの良いものだったが、此処の庭は広々とした感じがして、頗る付きだ。暫く廊下の敷居に腰を下ろし、緑豊かに生き生きとした 庭園に見入った。山に観る大自然とは異なるが、作られた自然の整った姿も捨てがたい。京都の天竜寺もそうだったが、庭の大小はあるものの、味わい深い立派なものが多く在るのは嬉しいことだ。

本堂を一周した後、境内の散策を試みる。立派な鐘楼があった(11)。さらに裏手に進むと宗良親王の墓所(12)が在る。厳めしい宮内庁の案内版には「みだりに域内に立ち入らぬこと」とあって、門扉は施錠されてある。
「井伊谷宮」(13)は解放感がある。御祭紳の宗良親王は、後醍醐天皇の第四皇子として南北朝時代には、征東将軍として活躍された由。親王は武のみならず、和歌に秀で苦難なご生涯の中に在って歌集「李花集」を残され、準勅選和歌集の編纂などの文化面でも功績を残され、73歳で薨去されたという。その不撓不屈、希望を捨てずに初志を貫く精神は、学問・心願成就・開運の神と信仰され尊ばれております、との由緒書きがある。護良親王の事はよく耳にしていたが、宗良親王については此処で勉強した事になる。

(14)は銘石「慈母観音石」。形が慈母の胸に抱かれた赤子に似ていることから、個人がお宮に奉納されたもの。(15)は井伊氏歴代の墓所である。
正面右に初代の井伊共保、左に第22代井伊直盛の墓が並ぶ。写真の五個の石塔は奥から、直盛夫人・井伊直虎(次郎法師)・井伊直親・直親夫人・井伊直政のもの。右側五個の石塔は写っていないが、井伊家歴代の墓との説明があり、井伊家六百年に亘る歴史が静かに眠っているとの案内板が在った。此の鬼瓦(16)は、大正10~14年の本堂大改修時に、屋根大棟の両側飾りとして作成されたもの。平成の修復工事に於いて、屋根形式を江戸期(延宝4年)当初の姿に復旧・整備した事により、解体した鬼瓦をここに保存・展示する、との案内が記して在った。

歳ふるごとに歴史に興味が湧くものらしいが、ツアーの締めとして龍潭寺を選んでくれたのは、良かったと思って居る。