銀座一丁目新聞

追悼録(647)

斉藤茂吉の歌に感あり

精神科医にして歌人の斉藤茂吉の墓は東京・青山墓地と郷里の上山市宝仙寺にある。茂吉は昭和28年2月25日死去、享年70歳であった。墓石には「茂吉之墓」と自筆の文字が刻まれている。

斉藤茂吉の歌。

「よにも弱き吾なれば忍ばざるべからず雨ふるよ若葉かへるで」

人間らしくてよい。強い男・茂吉にもこのような一面があるのが私には嬉しい。茂吉の二男・北杜夫は「時には獅子の如く勇猛果敢であった茂吉は矛盾しているようでいて時には『世にも弱き』男であった」と書いている
「あかあかと一本のみちとほりけるたまきはる我が命なりけり」(「あらたま」)
加藤周一はその著書の中で言う。「夕日の中で、一本の道全体が赤くなってそれが野原の中を貫いているという象徴的なイメージは茂吉が発見したものです」。「その新しさに注目した一人は芥川龍之介であった」とも書いている。凄い歌だ。生命の躍動感を見事に表現する。こんな歌に接すると己が小さく見える。本当に小さい。もっとも作家の辻邦生が北杜夫に「君や僕が何年もかかって大長編を書いたにしろ茂吉の歌一首に及ばないね」言ったというから茂吉の歌をほめ過ぎるということはない。
「たまきはる」は「うち」「命」「うつつ」「世」にかかる枕詞。
万葉集に「たまきはる宇智の大野に馬なめて朝ふますらむその草深野」(巻1―4)。さらに「たまきはるうちの限は平けく安くもあらむを」(巻5-897)、つづく「たまきはる幾世経にけむ立ちゐてみれどもあやし」(巻17-4003)、さらに「うつせみの世のひとなればたまきはる命も知らず」(巻20-4408)とある。
「たまきはる命短し秋の暮れ学びの道の深きを知れば」悠々

斉藤茂吉は正岡子規の歌集に接して、初めて作歌に志した。斉藤茂吉の話によれば、明治38年の春、第一高等学校の3年生の時、神田の貸本屋から正岡子規遺稿第一編「竹の里」を借りて詠んで初めて歌を作るようになったという。子規が亡くなって3年がたつ。 その歌集の中で一番強い印象を受けたいくつかの歌の一つとしてしばしば引用している子規の歌がある。

「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ畳のうへにとどかざりけり」

加藤周一は「とどかざりけり」が「やみがたき作者の主観の声」であるとする。私は「みじかければ」に子規の「生への渇望」をみる。

思い出した。この歌はオペラ「病床6尺に生きて」の第2幕第2場「短歌の革新」(子規31歳)にうたわれていた。

子規は歌う。「神の我に歌をよめよとぞのたまひし病に死なじ歌に死ぬとも」

伊藤左千夫(斉藤茂吉の短歌の師匠)「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」

長塚節「歌人の竹の里人おとなへばやまひの床に絵をかきてあり」この時、子規はもう一首詠んでいる。「下総のたかし来たれりこの子は蜂屋大柿くれし子」。子規は柿が大好きであった。

茂吉の代表作の一つ。

「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆうべとなりににけるかも』(「白き山」)

大東亜戦争の敗北のあと戦争協力批判の中、故郷の山形県に隠れ住んだ。「白き山」は昭和21年に出た歌集。失意のどん底で見た最上川の歌である。茂吉、時に64歳。吹雪の夕べの荒寥たる風景はそのまま彼の現在の心境であったと加藤周一は解釈する。士官候補生であった私が昭和20年8月31日、母の実家の愛知県岡崎に復員した。岡崎の町は空襲で3分の1が焼野原であった。母の家は辛うじて隣の家で空襲の被害をくい留めていた。荒寥たる康生町の焼野原はそのまま軍人の道を閉ざされ絶望の淵にさ迷う我が心象風景であった。その日はくしくも私の20歳の誕生日であった。

さらに斉藤茂吉は歌い上げる。

「あはれなる女の瞼恋ひ撫でてその夜ほとほとわれは死にけり」

万葉集には「帰りける人来れりといひしかばほとほとしにき君かと思ひて」(巻15-3772)。とある。原文を紹介すれば「可敝里家流 比等伎多礼里等 伊比之可婆 保等保登之尓吉 君香登於毛比弓」。斉藤茂吉はこれを「殆と死にき」(保等保登之尓吉)と解する。その意はいわゆる「交合歓喜」であると加藤周一はいう。

生を受けて90余年、「我れいまだ保等保登之尓吉その喜びを知らずいとかなし」(悠々)。

斉藤茂吉の辞世の歌。

「われ世をも去らむ頃にし白髪翁(おきなぐさ)いづらの野べに移りにほはむ」(「白き山」)。

(市ヶ谷 一郎)