銀座一丁目新聞

茶説

裁判官の人情と時代小説

 牧念人 悠々

裁判は社会部の取材範囲であったから関心を持っていた。『人を裁く』のは難しい仕事だと思う。聖書にも罪を犯した女性を難詰する民衆に神は罪なき者のみが石を以て打てといっている(ヨハネによる福音書8章1から11節)。憲法は「すべての裁判官はその良心に従い独立してその職権を行ひ、この憲法および法律の見拘束される」(憲法76条3項)とある。『天使の事典』(トラ・アンジェリコ=訳編・PHP)には「裁判官は一切の世間の常識にも拘束されることなく徹底的に非常識に振る舞う権利を最大限に保障されているという一項が広辞苑の定義から脱落している」と記す。なるほど裁判員裁判が必要なのかと納得する反面、素人に何がわかるかと疑問を持つ。

最近、40年間裁判官を務めた原田国男さんの『裁判の非常と人情』(岩波新書・2017年2月21日発行)を讀む。原田さんは安田講堂事件に始まりオウム真理教事件などを手がけ、20件以上の無罪判決を下した裁判官である。

この人が「裁判官の一番欠けたところは、世情と人情に疎いことであろう。しかし、これが一番大事なことかもしれない。いくら立派な判決文を書けてもこれに疎ければ本当に良い判断とはいえないだろう」と指摘する。昔から「裁判官は弁解せず」と言われ、自分の言いたいことは判決文に書いてあると沈黙を守ったものであった。原田さんが私の好きな藤沢周平の作品を愛読していると知って嬉しくなった。判決文を書く際には周平の作品の一つを読むという。「玄鳥」を最高傑作として挙げる。最後の数行が素晴らしいと紹介する。私はその数行に秘められている路の父親、剣術師範が示した弟子への思いやりに感心する。また若い裁判官たちに池波正太郎の『鬼平犯科帳』を讀めとも薦める。鬼平は「悪い奴は徹底的に懲らしめるが可哀相な奴は救うという精神で一貫している」という。私は毎週月曜日の夜、BS8CHで「鬼平犯科帳」を見る。事件の処理の仕方と事態が発展するのを予測して手を打つのが勉強になる。酸いも甘いも心得た鬼平の心情に共感する。

原田さんは刑事裁判で裁判長が判決後のする訓戒について被告の更生のために役立つならば大きな価値があるのではないかと言う。長嶺超輝著「裁判官の人情お言葉集」(幻冬舎新書・20008年9月30日発行)には裁判長が「久しぶりでしょう。息子さんを抱いてください。子どもの感触を忘れなかったら更生できますよ」と訓戒する。納得できる。この裁判は警察官の捜査を装いお年寄りから多額の現金をだまし取ったとして詐欺などの罪に問われた男に対し、懲役3年8ヵ月の実刑判決を言い渡した際のものである。裁判官は奈良地裁葛城支部・榎本巧裁判長(当時57歳)である(2007年5・18)。訓戒にはその裁判長の人柄が色濃く出るのは間違いない。日ごろの教養がものを言う。

裁判員裁判について著者は「裁判は人を扱う。いろいろな目線で見る必要がある。そのためには裁判員の人生経験や多様なものの見方が反映されることがより良い裁判の実現に役立つものと思われる」と言っている。私は「人を裁く」難しさゆえにいまだに疑問を抱く。しかし裁判員制度が出来た以上、これを育ててゆくほかない。

原田さんの本で最後に気になった点があった。ある大学の司法試験合格者祝賀会で一人の学生が「自分は将来最高裁長官になりたい」と述べたことだ。役人の世界で出世主義は悪いはといえないが、人を裁く場では“出世主義"はなじまなおい。違和感を覚える。このような男は常に上を気にして、上司に気に入りそうな判決文しか書かないし、書けないのではないかと危惧する。むしろ司法でなく商社向きの男だと思う。原田さんが指摘するように出世は目標ではなくあくまでも結果である。裁判官は個々の事件にベストを尽くすべきというのが一番正しい道だと思う。裁判所の中で出世を願う男に周平の「蝉しぐれ」で30年ぶりで会う文四郎にお福が言う哀切極まりない科白などとうてい理解できまい。私には時代が大きく変わったとしか思えない。

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